私は今、仕事で、公開前の映画を見せてもらっている。
いくつか自分でピックアップして、ダイレクトに案内をもらうのだが、そのついでに、「こういうのを今度、公開します」と、宣伝の方から教えてもらえる場合も多い。
こちらも、向こうから紹介していただいた映画。
で、やっぱり夏なので、戦争のことは考えたい。とはいえ、なかなか時間がとれず、「陸に上った軍艦」のマスコミ試写に行ったのは、最終日のことだった。
某サイトの仕事で、この映画の掲載を提案し、なんとか原稿は書いた。でも、仕事は仕事。自分の思いのたけを綴ることは困難だ。で、宣伝の方の許可をいただいて、試写を見て感じたことと、お借りした画像をアップしてみようと思う。
画像は借り物なので、どうか、持ち出しはなさらないでくださいね。お願いします。
さて、こちら、95歳の映画監督・新藤兼人氏の記憶に基づいたドキュメンタリー映画。
弱兵の視点から見たという本作は、赤紙で強制的に兵士にされた一般社会人の軍隊生活がリアルに描かれている。「悲痛な」「大変な」と、私が大好きな、すとんと意味が伝わる形容詞を使ってはいけないような気持ちになった。安直な表現は、キライではないけれども、ライトなタッチで、と、指示された仕事の原稿でも、悩みに悩んだ(笑)。感じたことが多いぶん、思うようには運ばなかった(力不足ですね)。
話は戻る。
試写をみている間、どうしても人ごととは思えず、まるで、自分の系図にある人の歴史を見ているようで、やりきれない気持ちになっていた。新藤監督には迷惑な話だろうが、私には、私の祖父や親類の人が作った映画…と、思えてならなかったのである。
ところで、新藤監督が、まず、任務を受けたのは、奈良の天理にある予科練施設だったそうだ。
天理教の本部の巨大な建物で、そこに、全国から予科練に志願してきた少年たちが集まってくる。新藤監督たちは、その少年たちが生活できるように、ふとんや畳の準備に大わらわだったらしい。予科練の少年たちの世話……。排泄物の処理までしたそうで、そちらは、本当に、まいったらしい(昔は、よく畑に肥料をまくシーンに出くわしましたが、あれの、バージョンアップ版ですね…)。
で、その天理の予科練。
実は、亡父が14歳から15歳にかけて、青森から、はるばる行った場所なのである。
父の死後、祖母(父の母)が写真を見せてくれた。
少年だった父が満面の笑みで学生服を着て真ん中に映っている。
祖父母と、父の弟や妹、それに父の従姉の集合写真だ。
予科練に旅立つ前の日に撮影したのだと祖母は言っていた。父は、天理の予科練に行った。
父は、娘の私には、あまり戦争のことを語らなかった。
中学のとき、自分の十五年間を作文にしようと、両親に話しを聞いたことがあったが、そのとき、初めて「奈良の天理にあった予科練」という言葉を聞いた。
父は、ときどき、カーステレオで軍歌を聴いていて、いっちょ前に反戦平和を意識していた私としては、そんな父に思いっきり反感を抱いたものだ。
でも、父は、別に戦争を美化するようなことを言ったわけではない。
ヒロシマにもナガサキにも、いつか一緒に行こうと言った。で、ずっと「Life」というアメリカの写真雑誌をとっていて、ベトナム戦争の記事や写真を、それとなく見せられたりはしていた。父の思想は、よくわからないが、アメリカの精神的な自由も認めていたし、社会主義の平等についても無関心ではなかったようには思う。
正直な話、あまり詳しくはわからない。
私のほうが、ちゃんと話そうと思う前に、父と対峙してもいいと思う前に、父は、あれよあれよという間に死んでしまった。
せっかく、新藤監督たちが世話をしてくれた予科練で生き残ったのに、父は61歳で死んだ。そんなに不幸な死ではないにせよ、31歳だった私は、まだまだ突っ張っていて、父との関係は、これから…と、いう時だったように思う。
私は、二十代のころから、何度も一人で奈良に行った。音楽に進んだ私だが、音楽以外に古代史が大好きで、柳本の古墳群や明日香村は、自分の庭のように感じて、今も身近な遊び場だ(お金がなくて、行けないことが多いですが(泣))。
私は、旅先から絵はがきを出すのが好きなので、よく青森の両親にあてて、興福寺の阿修羅の絵はがきに「奈良は、本当に奈良です」と、志賀直哉気分で送っていた。
出発の前、「奈良に行ってくるから」と、実家に電話をするたび、父は言った。
「お父ちゃんが、昔、行っていた、天理の予科練の跡地を見てきてくれよ」
半ば照れ隠しなのか、ニタニタして言う父の声を聞くたび、私は、無意味に反感を覚えていた。子供だったんですね(笑)。で、私は、一度も、父の申し出を受け入れることはなかった。
人から聞く戦争の話は、誰よりも真剣に聞くくせに、自分の父から聞く戦争の話となると、どういうわけか拒絶したくなり、ぶっきらぽうな態度しかとれなかった。別に、父は、自慢げに語っていたわけでもないのに。
「予科練で、よく、ふんどしを盗まれたものだ」と、笑いながら言う父のことがイヤだったのかもしれない。
父は、よく笑う人だった。
葬儀のときは、判で押したように、父のことを語る人全員が「豪放磊落な人だった」と言ったほど。私も、その言葉が真っ先に浮かんでくる。
でも、予科練のことを笑って語られるのはイヤだった。
予科練跡地のこと。
父の死後、初めて奈良に行ったときだった。ぼんやりと明日香の里を歩いたり、大好きな箸墓古墳のあたりを散策して過ごしていた。
三日目の朝、私は、その日、予定していた当麻寺にいくのを取りやめ、橿原神宮前から京都方面の近鉄に乗り、天理駅で降りた。駅前の電話ボックスに入り電話帳を調べ、市役所や教育委員会、商工観光課など、ありとあらゆる思いつくところに電話をしたら、社会教育課の人が、わかる範囲で教えてくれた。
まず、天理教の本部のこと。
そして、跡地として残っているのは、練習用の滑走路と防空壕などがあったところ。
天理教本部は部外者だから諦めて、その練習用の滑走路というのを探しにいった。
父から実際に、ここのことを聞いたことがある。毎日のように、行っていたときいたことを思い出した。
指示されたとおり、JRやバスに乗り、なんとか歩いて探し出した。そういえば、防空壕らしいものがあり、滑走路があったと言われれば納得できる直線も見いだすことができた。
農夫がひとり、作業している。
農夫の近くに、道標が見えた。「柳本古墳群は右」
春のお昼。まだ桜には早い時期。足もとには、タンポポが咲き、若い草木が、ぽやぽやと曖昧な光を放ちながらそよいでいた。
ぼんやりした時から、ほんの一瞬、目覚める。
今日、初めて訪れた、その場所で、私は愕然とした。
私が立っているその場所は、父が幼いときに訓練に明け暮れて汗と涙を流していた、悲痛な思い出である場所。
私にとっては初めてきた場所。でも、その瞬間、私は気がついたのだ。
なんと、なんと、その場所は、私が、それまで何度となく来ていた、大好きでたまらない柳本古墳群のすぐ近くだったのである。
思えば、今、きた道は、かつて通ったことがありそうな道。
私は、父が生きていたころから、それも、かなり前から、何度となく、父が訪れてほしいといった予科練跡地の近くまで来ていたのだ。もっと早く調べていれば、もっと早く、優しくなっていれば、父が生きているうちに、「行ってきたよ。見てきたよ」と、言えたのに。
新藤監督の映画は、兵士たちを、そのまま描いていた。感傷的でもなく、さりとて、無理に隠すこともなく。
正義感はちゃんとある。なんとかしようと前向きに考えている。
でも、辛い。不条理と理不尽がまかりとおる日常を強いられていると、みんな、どんどん何も感じなくなっていったという。
映画・「陸に上った軍艦」は、勇ましく英霊として消えていったくれた軍神たちの映画ではない。
だから、それだから、私は亡父を思い出したのだと思う。
中学生だった父に何ができただろうか。何も、できなかっただろう。
幸運なことに、死地に追いやられなかったから、私が、今、生きているわけだが、そんな父の命は、奇跡的につながれた。命をつないでいただいた。
そして、その、父の命をつなぐ手伝いをしてくれたのは、新藤監督のような先輩たちだったことは間違いのない事実なのである。
だからこそ、還暦すぎまで生きられた父。
私に、後悔の念を覚えることを残して死んでいった父。
新藤監督たちが整えてくれた宿舎で、寝起きしていた父。
何度も何度も思った。弱兵のほうが多かったに違いない。
お金持ちより貧乏な人のほうが多いように、怖いから反抗はしなかったけれども、心の中で理不尽と戦いながら、ガマンするという選択肢しかない中で、苦しみを通過させることしか考えられなかったに違いない。
もう、やっぱり戦争はイヤだ。
本当に、イヤだ。どの国でも、やめてほしい。
★『陸に上った軍艦』について
原作・脚本・証言 新藤兼人
監督 山本保博
出演 蟹江一平、滝藤賢一、大地泰仁、加藤忍、二木てるみ
語り 大竹しのぶ
7/28(土)より渋谷 ユーロスペース、千葉劇場にてロードショー 以降全国順次公開
配給:パンドラ シネマ・ディスト
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公式ホームページ
www.oka-gun.com


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