経済・政治・国際

2012/07/24

親切なサカイ引っ越しセンターさん

親切なサカイ引っ越しセンターさん
いやあ、感動しました。

技術、迅速、丁寧。皆さん、お人柄も良く助かりました。

新発田から、下北半島に向かってくれました。

さあ。私も、人生が動きます。皆さん、よろしくね。

引っ越しのサカイさん、明日は青森でよろしくお願いしまーす♪

心強かったですよ。

グループNEXTの高橋東悟は、下北半島に眠っています。
来月には初盆となりますが、きっと、のんびりしつつも、作曲しているかもしれません。
彼の作曲に使っていた五線紙、スケッチ帳、楽書、楽譜、もろもろ彼のそばにいきます。

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2005/09/12

やっぱりなーの衆院選

衆院選が終わった。
全くの前評判どおり、自民の圧勝となり、自公で三分の二を超える勢いのようだ。

イメージの誘導というのは恐ろしいものだと。実態を知らなくても、そのことを疑問に思ったりしない私たち一般的な日本人は、多分、最も操縦しやすい民だろう。頑固でもないし。自分が頑固でないだけに、批判的精神をもつ人のことを一方的に全面的に嫌う。率直に意見を述べる人のことは面倒くさいと近寄らせない。かと思えば、地位と名声を確立している誰かの言葉を真似てみるだけで、まるで自分が自分の言葉で語っているのだと勘違いして悦に入ったりする。

自民の圧勝。

コイズミさんは郵政だけで大がかりな選挙をして、ただ、それだけで衆院選を勝っていった。
民は、郵政の民営化がどんなものであれ、実際に誰が得をして誰が損をするのかは、何となくしか想像できていないのに、「改革」「ぶっつぶせ」というスローガンとキャッチコピーに、新しい波を感ずるような気がするのだろう。で、何となく他に魅力的なリーダーもいないし、スマートに見えちゃう総理に乗っちゃったというところなのではないだろうか。

本当は、郵政の後に、もっと大きな大きな大きなことが控えているのに。

どうするのだろう。このままだと、憲法が変えられるていくのだろうし。
「改正」という言葉は、こういう問題に使っていいのだろうか。私たちはもっと、政治家が使っていく言葉に突っかかったほうがいいのではないだろうか。政治家は、言葉で仕事をしているのだから。言葉の品質は、「あげあしをとる」なんていうレベルでも、「失言でした」で片づけられる問題でもない。なんたって、国民に委ねられた政治家なんだから。言葉で国民にアピールして当選させてもらった公僕なんだから。

憲法が変えられて、徴兵や海外派兵ができるようになったとして、世の中の皆さんはどうするのだろうか。戦争は誰しもが反対しているのだと言われるし、単純に徴兵に結びつけられるものではないと一笑にふされたりするけれども、政治家が、コロコロと逃げ口上を使い、笑顔で「大丈夫大丈夫」と言いながら、そのへんの子どもの頭を撫で、手を振って独裁者となってきた恐怖の歴史を、私たちは幾つも幾つも学んで知っている。

死ななくてもいい命が死に向かい、あげくは未亡人と孤児が残される。生き残った命は、恥と罵られる。
ただ、生きていたいと思うことが許されなかった時代は、たった六十年前のことなのだ。

核廃棄施設は本州最果ての県に押しつけられるし、低所得者層は高額の医療費に頭を抱え、体調が悪くても病院に行きにくくなる。福祉の予算はどんどん削られ、申請できる基準も厳しくなっているというのに、軍事費や政府が使うお金だけは膨大で、巨額の使途不明金が出てきても呑気な顔をしたままだ。

本当に頭に描かなければならないのは、郵政民営化の是非ではなくて、そのあとにくることだ。
子どもたちのために、とか、地域社会を守りたい、とか、地球環境を考える、とか、思っているのなら、郵便局のことだけで推し量ってはいけない(でも、推し量っちゃったんだよね。選挙は終わったからね)。

どーにもこーにも、やるせない気分。最近、選挙のたびに、こういう気分に苛まれる。

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2002/11/15

晩秋に


 北朝鮮の拉致被害者が帰国されてから、そろそろ一ヶ月が過ぎる。日本は暖かいと感じていらっしゃるだろうが、それぞれの胸の内は想像をはるかに凌ぐものがあることだろう。安易に、どうすればいいとは言えないけれども、若い頃に拉致され、そして今、子供たちと離されている。帰らないで欲しいという気持ちは、この私にも強くある。あるけれども、悲しみを乗り越えられた人々に、また新たな試練を突きつけるのは酷な気もする。

 国と国との駆け引き。人の命がいくつあり、核爆弾がいくつあり、お金がいくつあり、譲れない条件と条件がせめぎあい、数や力加減が、格闘ゲームのHPゲージのように赤くなったり青くなったり……。どちらが勝つか、ワザは何か、アイテムは何か。湾岸戦争のとき、空爆の模様が、まるでテレビゲームのようだと嘆いた。今だって、何も変わってはいない。
 人の命は絶対だ。再生ができない。その人でなければならない唯一の存在だ。
 核兵器なんて、みんなで作るのをやめればいいだけのこと。みんなで、捨ててしまえばいいだけのこと。捨てるためだけに科学者を動員すればいいだけのこと。どこかの国の核開発はやめさせるけれど、自分のところは世界平和のために持ってるよーん♪ などというアメリカのバカバカしい論理なんて、みんなで無視しちゃえばいいだけのこと。やめるのは、何よりも簡単だ。幼児にだってできる!

 たとえ選挙のためだろうと、一人の一生が、より幸せなものになるのなら、それで構わないのかもしれない。けれども、そのようにして、ひとつの美談が作られるたびに、こざかしい政治家が生き延びるとするならば、その政治家を指導する立場にいる支持者は、率直に弾劾しなければならない。私たちは政治家の飼い主だ。政治家に飼われている、もの言わぬペットではない。

 惑わされてはいけない。美談と政治は別物だ。良いことをいくつしたからといって、悪いことをいくつかしてもよいということにはならない。

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2002/08/09

綴ることと囁くこと

 このままではいけないと思うとき、私は、とりあえず綴り、一人で囁く。

 この現代日本に生まれ、のほほんと人生を積み重ねてきたが、こんな私でも、いくつかの心を揺さぶられるような出来事に遭遇してきた。とはいえ私は、大病をしたわけでもなく、ドン底の生活を強いられたわけでもなく、大怪我をしたり災害に見舞われたこともない。せいぜい、恋人が死に、友が死に、親類や父が死んだくらいのことしか経験していないし、一番大きな怪我といえば右足と肋骨と右の小指を骨折したくらいのものだ。

 その平和な私の人生に暗雲がたちこめてきた。私たちの日本は、私たちが歴史で習った間違った時代に戻ろうとしているかのようだ。私は音楽を専攻したので、あまり、きちんと一般教科を学んできたわけではない。だが、音楽に集中するためには、それなりのしっかりした社会でなければならないことだけは知っている。

 音楽では人を殺さないと思うだろう。

 けれども、なぜ、国歌が必要とされてきたのか、なぜ、行進曲があるのか、なぜ、進軍ラッパがあるのか、なぜ、勝利の歌があるのか、考えてみればわかるだろう。人々を高揚させ、共通の意識を喚起し、麻薬のように民意を統率する。
 音楽には、腕力以上の暴力が内在している。

 演奏会のロビーで、ある音楽愛好家が、笑いながら「石丸寛さんくらいの世代って指揮者がいないよね。全く、育たなかったんだろうね」と言ったので、私はすぐ、「二時大戦で亡くなったんじゃないの?」と答えた。名前が世に出る前に、音楽で身を立てる前に、出陣して戦死された人も多いだろうし、命からがら復員しても、音楽への情熱を失ってしまったり、無理矢理、その想いを消してしまった人もいるだろう。

 そんな世の中の繰り返しはごめんだ。

 私は、プロレタリア文学には共感するが、好きではない。文学として熱中できない。でも、多喜二の時代に戻ることは許されない。亀井勝一朗も獄中で転向した。他にも多くの文士が思想を理由に逮捕され、自由を奪われ、ある人は転向し、ある人は拷問によって殺された。
 思想を奪われるということは、心を囚われるということだ。本当に転向したのならともかく、自分の心の弱さに打ちのめされて転向した人は不幸だ。今の私なら、何があっても生きて残ってもらったほうが良いと思うが、その時代の本人にしてみたら、もう、これで自分は死んだと思っただろう。

 住基ネットが始まってしまった。秋には有事法案も通るのだろう。売上税が反対されながら消費税があっけなく通る国。自分の国が他国にしてきた残虐な行為を伝えることを、「自虐的な偏った歴史教育」と断言する人々。それぞれが自分の判断で考えることができる世界であることが必要なのに、後ろめたいことは隠してしまおうというわけだ。
 私たちは、これから、消すことのできない背番号を付けられる。
もし私たちが牛や羊なら、お尻や背中に番号を焼き印されるのだろう。名前がなくなり番号で呼ばれるようになるかもしれない。管理されることを楽だと感じ、端末でしか人を認識できなくなるかもしれない。

 それでも、これが私たちの国だ。私たち、国民が選挙によって選んだ政治家たちが決めたことだ。私は、与党の方々に票を入れたことがないから、いくら批判したってかまわないだろう。しかし、この国が、恐ろしいほどの逆行を果たしたとき、彼らを支持した多くの日本国民は、ニコニコして日の丸を振ってほしいものだ。自分たちの大切な人々が国の命令により、どんな過酷な試練を受けようとも、笑って送り出せるのだろう。自治会長さんたちは隣組のようになり、背番号が印字されたペラペラのOA用紙が赤紙になるのかもしれない。

 小泉さんは、ヒロシマで、「非核三原則」を守ると言った。それでは、先だっての福田さんの発言はどうするのだろうか。

 私は、音楽家が音楽に集中できる世の中であってほしい。作曲家は書きたいものを追求してほしい。小説家は、書きたいものを書きつつ、矢張り、ストレートな文字表現である以上、その内容にも責任をもたなくてはいけないだろう。差別用語は、使う側の見解ではなく、使われる側の感情の問題だ。

 そんなことを考える夏。夏休みのはずなのに、心は全く休めない。精神が安らぐ日というのは、本当に存在するのだろうか。

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2001/10/17

戦いの世に生きて

 どこでも誰でもが論じていることだけれども、私も戦争は反対だ。
 テロは許せないが、報復を続ける選択もまた、納得のいくものではない。
 「聖戦」という言葉を抹消してほしい。世界中の言語から、その言葉を葬って欲しい。
 私はカトリック教徒だが、実家は曹洞宗だ。お盆には、せっせと実家の手伝いをするので、巷では熱心な仏教徒として映っていることと思う。神社仏閣巡りが趣味の私だが、私が教わった神父様は、クリスチャンだからといって、やってはいけないものはないとおっしゃった。お寺にも行きなさい。お墓参りにも行きなさい。親類の結婚式の神社にも行きなさいと、にこやかにおっしゃった。
 空の上では、イエズスもモハメッドも仏陀も、日本の八百万の神々も、皆、仲良くしているはずだ。「聖戦」といって殺し合いを正当化する行為は、すべての神々からの裁きを受けるだろう。宗教は、世俗化して悪を生み続けている。
 聖書でもコーランでも、書かれている言葉そのものを、そのままの意味で捉えるのは無意味だ。教祖は、たとえ話をして信者に道を示す。親は、子供にたとえ話をして、子供を慈しみ育てる。真実を伝えるには、ときに大げさなたとえ話を、あたかも事実のように語ってきかせることがある。聖書もコーランも、そのようなものだと思う。
 宗教の名の下に、人を殺す。そしてアメリカは、世界正義の名の下に、人を殺す。ブッシュ大統領は、世界の国々に、「テロを取るか、正義をとるか」と迫った。覇権をかざすことにより、未だに自国を世界の警察と疑わない。
 アフガニスタンで、空爆を受けて片足を切断されたと言った青年が、実は空爆ではなくて地雷の事故によるものだと報じられていた。けれども、いずれにせよ青年は、戦争という自力では防ぐことのできない事情で片足を失ったことに変わりはない。

 正当とされる暴力はない。
 私たちの生きている日常で考えても同じことだ。

 私は、子供たちと音楽を通して付き合っている。雑談の中で、よく学校でのイジメや悪ガキの素行が話題となる。
 おりにふれて私は、せめてもの大人の務めとして、「原因があるからといって、その子をいじめてもいいということにはならないよ」と言うことにしている。正当とされる暴力は、世界のどこにも存在してはいけないのだ。

 いつだったか、私は子供の頃に学校で起きたイジメに巻き込まれたことを子供たちに話したことがある。
「先生、どっちだったの? いじめたの? いじめられたの?」
 私は、いじめられたことを告げた。
「ええっ、そうなの?」
 子供たちは意外そうな目つきで私を見た。それは、私がいじめっ子のようなヒドイ性格に見えていたというわけではなく、いじめられるようなヘンな子供だったのかということを意味しているのだ。
 加害者の方が正しく、被害者はいじめられるべくしていじめられたという意識が潜んでいるように思う。単純な正と悪はともかく、ヘンなヤツには言葉で言っても通じないから、やっつけても構わない、という暴力の正当化が根付いているように思えてならない。

 私には、やっぱり共感できない。
どんなに理由をつけても、暴力は所詮暴力で、暴力による解決は新たな暴力を生み続ける。
政治家たちの、言葉の転換合戦にもうんざりする。
所詮、暴力に荷担するということだから、世界中の国々が加害者となっていくのだろう。

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