日記・コラム・つぶやき

2011/04/15

原発半島とわたし

両親が教師の私。
戸数50戸ほどの小さな海沿いの集落や、マグロで有名な大間町など、下北半島のなかを転々として子ども時代を過ごしました。
ひとくくりに「青森」「下北半島」と言われますが、それぞれの集落や町は個性にあふれ、言葉も異なり、文化の違いや、ちょっとした雰囲気や景色の差異に発見を喜んでおりました。
両親も姉も私も、転校転勤の苦労はあっても、それ以上に引っ越す先々で楽しく暮らしていました。

交通も不便ですが、父は「漁師をやる甲斐性がないから、先生やるしかなかった」と言ってました。

引っ越すたびに私は、地域の方々から「うちの子になって、ここで暮らして〜」「みねあは残れ。養女になれ。グランドピアノ買ってやるから」と泣きつかれました。今も他人でも親類のように付き合っている大切な人たちがいます。

経済的に貧しい半島。
厳しい自然環境もさることながら、仕事はなく、かつての200海里で漁業は一気に苦しくなりました。「目の前に海があるのに、こうして魚を買って食べてるんだよ」と、ため息をついた「うちの子になって」と言って泣いてくれたおばさん。
帰省の折、タクシーに乗ると「湾岸道路もレインボーブリッジもディズニーランドも俺たちが作ったんだよ」と、ドライバーたちが口にします。

そういう出稼ぎをしなければならない環境にある人たちに「地元での仕事」が与えられます。原子力関係の仕事です。
出稼ぎをしなくていい職種の人たちには文化や芸術が与えられます。
行政主導のホールはガラガラでも、原発関連の演奏会場にはイベント会社がつき、一流の内外演奏家がやってきます。
まさに、仕事がない人には「出稼ぎをしなくてもいい仕事」を。
教師や会社員など、漁業や農業ではない人たちには「文化、芸術、教育、医療、より高い生活水準」を。

30年、40年……もしくはそれ以上の長い歳月をかけて、私たちの最北端の半島は原子力半島と化していきました。それしか選択肢のない状況に追い込まれていくとしても、まだ、それが、むきだしの民意だというのでしょうか。データに残らない歴史があるということを、「風評」という便利な言い換えで笑い飛ばしていいのでしょうか。

今は福島原発だけの、想定外の、人類初体験の事態だと特別な状況と位置づけられておりますが、
他の原発に、そうした想定されている「想定外」が起こらないとは、もう言えない段階です。起きてしまったいるのですから。余震も続いています。

そして、仮に21世紀の今、この状況が落ち着いたとしても、私たちは、私たちがいなくなった未来に、どうやって言い訳をするのでしょう。未来の「想定外」は、知らぬ存ぜぬでいいのでしょうか。

下北半島は逃げ場がありません。
付け根の南も、東も西も北も、原発関連施設に囲まれています。
閉じこめられてしまうのです。想定内の想定外で。
都会の、最も都会らしい景色の礎。確かに都会は地方の人々にとって憧れであり、生活の糧を設定したもらった土地ではあります。ですが、人と人。命と命。
犠牲になっていい命など、ありません。それは母なる地球の命も同じです。未来の命も同じです。

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2011/04/10

原発半島出身者として

東日本大震災から四週間が過ぎた。

これまでの暮らしが夢で、今が現実な気がする。
私が生まれる前には戦争。戦後の生まれとなり、いっちょ前に平和を手にした気になっていた。
平和がもたらした、終わりのある戦争から真の平和となりえた世の中に、安穏と暮らせる立場が恒久だと思っていた。戦争さえ防いでいるならば、どこまでいっても平和で幸せなのだとタカをくくっていた。

だが、大自然の視点に立つならば、
いつになっても呑気に殺し合いをしてるものかと、浅はかな人間たちを嗤う間もなく、警鐘を与えるなどというお節介をする気もなく、ただただ無視していただけのことだろう。

地震も津波も人の営みなどおかまいなしに引き起こされる。
そんな危うい地に、私たち日本人は暮らしているというのに、
そのことをすっかり忘れて、危険な施設を容認して生きてきてしまった私。

当たり前のことを知っていながら、修理したり、処分したり、自分たちの手の届くところでやりくりできない原発というものを、日本は幾つも幾つも作ってしまっている。

動かしてしまった。
使用済み核燃料を再処理工場で処理するのだから、リサイクルができてナンというクリーンな安全安心なエネルギーとシステムなのだろうという神話。

いや、「神話」なんて使ったら神様の皆さまに失礼だから撤回。

マニュフェストのように、「やっぱりダメでした」「こう思いましたが、昨今の状況の変化のため、撤回します。改正します」とはいかない。暴走したら、誰にも止められない。世界を巻き込み、私たちが誰も知り得ない先の先の未来まで、ずっと止めることはできない。
重ねていうが、誰も、看取ることができないのだ。

今は被災者への支援と復興を最優先させるべきだという人たち。
それは当たり前のこと。誰も、そのことを否定しはしないし、原発に異を唱える人たちだって、できうる限りの支援をしている、もしくは自分に何ができるか真剣に考え、その機を待っているのだ。

私だってそうだ。

自分の仕事をしながらも、やはり頭のなかには、いつも「明日は我が身」「よく知る景色と人々の復興を」と、微力ながら悪い頭をフル稼働させてもいる。

火事を消しているときに、見えるところで火を使っている人がいたら、ましてや同じ火事の原因を作るようなことならば、「やめて、やめて」と火を消させるだろう。
それを放置して、消火したとしても、またすぐに次の火災が起こる可能性が高いのだから。その火災も、どう消火すべきかどうか、方法論さえ曖昧な危険度の高い火災なのだから。

火力発電所が二酸化炭素を排出するリスクも、水力発電が不安定なリスクも百も承知している。けれども、これからどうにかして、優秀有能な科学者の皆さんに研究していただいたなら、原発に変わるエネルギーをクリーンでエコな使い方を見出すことができるはず。

国レベルの経済がバックにあるのはわかる。
売り買いして、経済活動を支えたいのもわかる。
けれども、やっぱり私は原発はイヤ。
誰かが大もうけしているのを見逃せても、原発の脅威に現在と未来がサラされるのはイヤ。
絶対にイヤだ。
未来から恨まれたくないし、侮蔑されたくない。されたくないのではなく、確信犯になってはいけない。

下北半島に生まれ、六カ所村、東通村、大間町の原子力施設の成り立ちを見聞きし、廃船となった原子力船むつを自分の部屋の窓から見て育った私。
あの美しい、ふじ色の原子力船が停泊する様は、私の部屋から一服の絵画のように見えた。恐ろしさがわからなかった小学生のころは、その美しさが自慢ですらあった。

中学に入り、「原子力」という言葉の意味を知るまでは……。

どんなふうに、長い年月をかけて、原発なくして生活はありえないという筋書きに飲み込まれていくのかという過程もわかる。
データとして残らない、多くの除籍処分のような歴史も知っている。

原発が暴走したら、真っ先に故郷はなくなり、1人暮らしの母や友や知人、父と祖母が眠る半島は逃げ場を失い、孤立する。まだ間に合う。見殺しにする前に、そういう不安を抱えている多くの人々とともに、私はやはり原発はイヤだと叫びたい。

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2010/11/22

市長選の翌日

二階堂さんが当選された。

今回は四人による選挙戦。

わりと早い段階で、どなたに一票を投じるかは決めたが、
今回の選挙、正直、自分がホントに共感をして投じたわけではなく、
どことどこを妥協して、いろいろ調整するとこの人に近いかなという方にいれた。

心情的に応援したい候補もいたが、四人による選挙ということで、
上位で絶対になってほしくない人がいたため、
さすがのワタシも現実的にならなければ、、、みたいな感じだった。

結果、一番、拒絶反応を感じていた候補には決まらなかった。

まあね。
とりあえず、これが結果だし。

でも今回。
新発田で生まれたダンナも言っていたが、つくづく情けないもんだと思うことがあって、
なんともこの街に住んでいるのがイヤになった。
ダンナは生まれ故郷なわけだから、感情をこめて「情けないっっ」と声をひっくり返し、「嘆かわしいっ」と天に唾するようだった。

言葉を吐き捨てる、その感じ。
実によくわかる。ワタシもだ。

新発田に住んでいると、
どっちが都会か田舎か、
ちゃんとした人か、そうでない人かと、
やたらと排他的な悪口が聞こえてくる。
けれども、それはどこでもそうなのだし、
「新発田」を枕詞にしてしまうのは、
ワタシやダンナがひねくれていて、人間が小さなヤツで、
それこそ周りの悪いところだけ嘲笑うことに一生懸命なイヤな性格だからかなぁ、、と
自己侮蔑に陥ることが多い。

どこに住んでいても、住めば都。。。なんだけど、
ときどき、「新発田らしさ」というものをマイナスイメージにしたくなるような出来事があり、
それもまた、どこに住んでいても同じなんだから。。。と、
言葉でいうほど、気にしていたわけではない。
位置的に中途半端に開けている地方都市だからかなとも思う。
田舎であることに自信を持っておらず、
田舎だけど都会だよ。他のホントの田舎と一緒にしないでね。
みたいな価値観とか、とにかく「田舎」が格下イメージを強調したがる人々。

ワタシとしては「田舎」は最上級の褒め言葉。ステキだよ。ホントにステキ。すばらしい!
堂々と言いたい。わぁいわぁい、田舎住まい。田舎暮らし。
湖も山も歩いていけるんだよーーーーっと。海まで歩いていけないことが唯一の残念。

で、選挙戦に話をもどそう。

どこの陣営とは言わないが、
なんと今回は、怪文書がとびかったのである。
怪文書ですよ、怪文書。
特定の候補の悪口を連ねて、わざわざ市外まで出かけて投函したという怪文書。
個人の家のポストにも投げ入れられたというのだから、
その執念と労力は凄まじい。ご苦労なことだ。

それが有効か、そうでないかは別として、

恥ずかしいですよね。恥ずかしいよね。
地方の選挙って、本当にこういうことがあるんだね。
ドラマの中でこういうシチュエーションになったら、
ウソっぽくて笑っちゃうヤツですよ。
それが、自分がいく選挙で起きちゃった。

こういうニュースがあると、ダンナはよく、「情けないっ」「ばかめが!」と怒りを露わにするが、
それは遠くに住む人たちの話。
まさか自分の住んでいる、いや生まれ故郷の街で、こんな事態が起こるなんて許せないと頭を抱えた。

ワタシも、こういうのは嫌い。青臭いと言われようと、
他者をおとしめて、自分がのしあがろうという根性は許せない。

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2010/08/15

敗戦の日に

勝った負けたと国と国の大げんか。
利権が絡み、人の命を数値化して置き換えたことは、
かけがえのない、たったひとつの慈しむべき生まれた命を、
ことごとく踏みにじり、葬り去り、悲しみと苦しさばかりを民に強要した。

どんな立場にある人でも、
涙をこらえ、慟哭する。国によって強いられたことの結末は、未来永劫、癒えることはない。

ある時期(多分、今でも)、
私は沖縄に呑気に観光に行くという発想にはなれなかった。
むしろ、犠牲者たちを慰める意味でも、今、こんなに幸せな世の中になりましたと、
明るく遊びに行くことは正しい行為だとは思う。
だが、島の形が変わってしまったと言われる激しい戦場と化すことを許してしまった国の民として、
どうしても無邪気に、ちゅらしまうちなーを意識するのは難しい。
申し訳なくて。うちなんちゅーの皆さんに。

ところで、8月15日のことは、母からよく聞かされた。
あの放送は小学校の校庭で直立不動の姿勢で聞いたと。
校長先生が大きな声で泣いたので、六年生だった母は意味がわからないまま、
みんなとともに泣いたのだそうだ。
校長先生と同じようにしなければならないと思って、みんなで泣いたのだそうだ。

母は小学三年生のとき、赤ちゃんだった妹を亡くしている。
それも奥羽線の車内で、背中に赤ちゃんをおぶっている状態で。
人は死ぬと重くなるのだと、寝ているときよりも重くなるのだと、
背中で実感したと母は言う。

そんな思いを、戦争に行かなくてすんだ世代の母にまで強い、
15歳だった父を予科練に送り出した、あの戦争。
風化させないためには、体験者たちの実際の子である私たちの世代が、
周りの人たちが「戦後は大変だった」と肉声で教えてもらった私たちの世代が、
風化させない行いと意識を持っていかなければ。そうでなければ、どんどん戦争の現実は仮想空間との混同に甘んじてしまうだろうし。それも責められない。
私たちだって、親や祖父母の世代から、呆れられ、ため息をつかれ、「今の子は」「今の人は」と嘆かれたではないか。

でも、加速は進む一方。
このままでいいわけはない。

しっかり悩み、しっかり生きるためにも、
社会のなかの自分を失わずにいたい。

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2009/09/17

物書きのお仕事現状

一応、フリーランスのライターでもあるワタクシ。

時折、契約している編集プロダクションや編集部とのやりとりで、ビックリするような内容を見聞きすることがある。

まぁ、出版業界は不況といわれて久しいが、
ウェブ、携帯サイトと、文章そのものの需要はわりとあるのが現状だ。
でも、ウェブ媒体は、紙媒体よりも、とりかかりやすいためか、
ライターに支払われるギャラも、ちょっと低めとされているようだ。

さっきまで、ライター仲間&元編集仲間と雑談していたのだが、
原稿料が「1000円を切った」という話題から、
なんと「100円を切った」ところがあると聞いて、みんなで驚いた。

500文字程度の記事で80円だったか90円だったか。。。
いずれにせよ、二桁の金額が提示されていたというのだから、驚き、怒りを通りこして大笑いしてしまった。
まぁ、もちろん、簡単なリライトなのかもしれないけれども、それにしてもオドロキである。

いやいや、笑っている場合ではないか。

リライト、オリジナル。
さらには、取材といってもウィキペディアを参照のみだったり、
確かにライターの側にも、「これで仕事?」という実態はあるのだろうが、
それでも、どこかのアンケートの謝礼みたい。

ぼんやりまったり、仕事の合間のバカ話。
外は青空。秋晴れでございます。

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2009/08/11

北に向かって

北に向かって
台風や地震で、自然の力を改めて実感する。

今日は下北半島へ。

羽越線で秋田に向かうと、海側に風力発電の風車の真横を通る。これが毎回、楽しみ。

義母が持たせてくれたおむすびを食べた。

秋田の稲は新潟より、まだ丈が短め。北なんですね。

ころから、母の生まれ故郷の街。

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2009/08/06

ヒロシマの日に

やっぱり、8月6日は祈らなければならない。

ところで、オバマ大統領が、手強い母国で核廃絶を宣言した。
原爆投下も、人道的とはいえないと思うという旨の意見を述べられた。
もちろん、アメリカだから、退役軍人などの猛反対や反発は覚悟のうえだろう。

政治家とは、こうであってほしい。
言葉は政治家の仕事そのもの。
どこかの国の首相のように、言葉の使い方ができないことを言い訳するのとは違う。

政治家は言葉で仕事をする。

誤解を恐れずにいうならば、私は、政治的な意味でのアメリカが大嫌い。
自国を世界の警察と信じてやまない国。
興亡の歴史を繰り返す大国を代表するような国。
自国の利益のための戦争を、あたかも「人としての正義」のようにすり替えるごう慢さ。
もちろん、その、ごう慢さは、民を戦いに巻き込む全ての人と国に共通するものだろう。
アメリカだけではない。

当然のことだけれども、そんな私であっても、
アメリカの文化や、そこに生きる民のなかには大好きな人も大勢いる。
ハリウッド映画は大好き。
バカにすることもあるけれど、やはりあの根っからのエンタメ精神は、アメリカ特有のエネルギーだと思う。

さらに、「自分」のありかたとしての自由主義や個人主義にも共感するし、私のそのほうが楽だ。

政治は嫌い、民や文化は好き!
そう断言していたアメリカのありかたであったが、
ブッシュからオバマ政権へと変わったとたん、
こりゃ、我が国よりいいじゃん!
と、呟くことが多くなった。

ちゃんと、政権が替わるんだから。
トップが間違っているようなら、きちんと変えたいという意志が形として残るんだから。
民も、そうやって、しっかりした意志を発揮するんだから。

二大政党は、明確に違っていなければ意味がないだろうなと思う。
日本の自民と民主は、・・・・・違いがあるといえばあるが、
そうでもないようなところがわんさかある。

やっぱり日本人は、「みんなが同じ」ほうが安心するし、好きなのだろうか。
ランキングランキングと、仕事で私も意識させられることが多いが、
やっぱり、「みんなといっしょ」が基準なのである。

話がそれた。
ちょっと戻ります。今日は8月6日です。

私は、

原爆を想い、投下したアメリカへの想いよりも、被爆者や、
とにかく二度と被爆者を出してはいけないという、ただひとつの気持ちだけが熱くなって、ひとつの塊となり、それを絶対になくしてはならないと強く思う。

考え方は違っていい。
外見や内面が違っていい。
宗教が違ってもいい。
食べ物の好き嫌いが違っていい。。
勿論、言葉や生活が違っていていい。

同じことは、ただみんなで生きているということ。
自分が生きていて、他の人も生きているということ。
同じ空気を吸って、同じ風に吹かれ、同じ海を見つめ、同じ空に見つめられ、同じ大地に抱かれているということ。

亡き親友は、岡山県の生まれ。
広島の大学に学び、私も彼女と学生時代とリンクさせてもらう形で、
遠く青森から、自分につながる体験としての「ヒロシマ」を意識し、交わった。

こんなに狭い日本であっても、ちょっとした差異に驚いた私。
まだ知らないことがたくさんあるということを、素直に受け入れられる人でありたい思った私。


今日はヒロシマの日。
そして九日はナガサキの日。

夏を思いっきり楽しめる今は幸せ。
この幸せが恒久のものであるように、
そして、今、人が起こした戦争のために、誰も止められなかった戦争のために
心も身体も傷ついている人たちに心の目を向けて、
何かできることがないかと考える神経をもたなければならないと思う。

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2009/03/20

地下鉄サリンの日のこと

あの日、私は一睡もせずに朝を迎えていた。

結婚して暮らしを始めたのは、江古田・日大芸術学部のすぐ近くにあるポロアパートだった。
夫が学生のときから住んでいたアパートで、一応、ピアノを置いていて(ピアノ可物件は練馬区に多い)、六畳一間の木造二階建て。家賃は3万3千円。
まな板をおく場所がない流し台とトイレがかろうじてついているだけで風呂はなかった。
洗濯機は玄関の外の通路に置かれ、洗濯をするときはトイレの窓か玄関をあけて、水道のホースをつなぐ必要があった。

世はバブルのころで、10万円の家賃を用意しても、その木造が鉄筋になっただけで、へたをすればもっと狭い部屋しか借りられなかった。
10万円の大金が、不動産屋では「10万円じゃぁねー」と苦笑いされて、最低価格にすら届かない感じ。

私たちは、10万円を「はした金」のように扱いたくなかったので、引っ越しを考えるのをやめた。

ところが、あちこちで銭湯がなくなり、木造アパートに入居する人は少なくなり、
同じアパートでは外国人たちが一部屋に10人くらいで住みつくようになってしまった。

かつて、このアパートには何人も音楽や美術の苦学生たちが住んでいた。
友達がクラで日本音楽コンクールを受けたとき、私は伴奏を頼まれた。
このアパートで二次の課題曲であるウェーバーだったかの作品を練習していた。
ピアノパートはやけに難しく感じられ、友達の晴れ舞台を邪魔してはいけないと、
私は、そのおんぼろピアノで練習に練習を重ねていた。当時は、まだ結婚前。
私は行徳の部屋に、ピアノを置いていなかった。

あるとき、私が伴奏パートを練習すると、どこからともなくクラで旋律が聞こえてきた。
一緒に同じ曲を吹いている人がいるのである。

それは、階下に住む人。
お互い、声をかけあったり、顔見知りというわけではないが、しばし、うっすらと伴奏会わせを体験した。

このとき以外にも、何度か異なる部屋との伴奏会わせは経験がある。
シューマンの「女の愛と生涯」。チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」。
木造アパートには、さまざまな専攻の人たちが住んでいて、夫もここで劇伴の曲も書いた。

そのアパートの住環境が格段に悪化したのは、やはり、バブルの影響だろう。
みんな、こぞって高額のマンションのほうに引っ越していった。

だが、私たちにはお金がなかった。

そんな私たちに、夫の恩師が、すぐ近くにある自分の仕事部屋に住まないかと仰った。
少なくともキッチンは独立していて、調理台はまな板を余裕でおけて、
それに何と、風呂付き。台所でお湯も使える。ベランダに洗濯機を置けるので、
もちろん、洗濯物はベランダに干せる。布団も干せる。ただ、めちゃくちゃ古いけど・・・。

近くに銭湯がない状態だったのと、先生が大家さんということで家賃も現実的だったので、
即断でお借りした。先生が助けてくださったのは、いくら私たちがごう慢で自己中心的な性格でもよくわかった。ありがたかった。

その引っ越しは3月20日。今日と同じ日だった。

木造アパートからの引っ越しで何が辛いか。どこを見ても一間しかないので、
荷造りした荷物を置く場所がない。段ボールを積み上げると、私たちも立っているしかないような夜だった。朝になる前に、テレビを外し、オーディオやパソコン類のケーブルもぬいた。
引っ越しのトラックは9時前には来る予定だったし、その前にピアノの生徒で大学生のコが手伝いに来てくれるはずだった。
彼女が朝ごはんを買ってきてくれるというので、私たちは食べずに待っていた。

電話も外していた。
ケータイなど、なかった時代。

・・・だが、トラックは来ない。生徒も来ない。
「ったく、あの子は、こんな大事なときに遅刻するんだから」

日芸の前にファミマがあって、とりあえず私が、おにぎりやパンを買い出しに出てみた。
ところが、ファミマには、おにぎりもサンドウィッチもお弁当もなかった。
店員さんが「すみません、すみません」と謝る。
カロリーメイトや缶コーヒーを買って、とりあえずアパートに戻る。

昼過ぎ、ようやく生徒がくる。トラックは来ない。

「地下鉄が止まっていて、何かあったみたい」

人身事故かしらね。
車両故障かしらね。
とにかく、何か事故が重なったみたい。

あら、そうなの。
テレビ、つけてないし、ニュース見られないからわからないのよね。

のんきに、とりあえずテレビを引っ張り出して、コンセントをいれてみる。
室内アンテナを夫が手に持ったまま。

乱れた画像で、かろうじて映ったのは、何か、とんでもない事態が起きたということ。

地下鉄サリン事件が起きたのだ。

それでなくても混雑する道路もマヒ状態となり、
トラックも、車で手伝いに来ようとしてくれた人も、地下鉄を使わなければ来られない生徒も、
みんな、みんな、ものすごく到着が遅れた。

事件があった日比谷線は、叔母が通勤に使っている駅。時間的にも符合する。
心配で仕方のないまま、なんとか大幅に遅れて引っ越しが完了。

新居に、姉から電話があった。
「叔母さん、あの電車に乗ってなかったって!」
受話器を通して、姉の叫びのような声を聞く。
でも、もちろん、このあとで、身近な人たちの不運を知ることになった。

犯人のひとり・林被告は、行徳のピアノ教室の近くに潜伏していたところを逮捕された。
この人を目撃した人物の中に、私のピアノの生徒たちもいる。

オリーブ色の制服で、イメージを変えたばかりの営団地下鉄。
あの制服を思い出すたび、泣き叫ぶ人の顔と声が脳裏に甦る。

東京メトロとなって、制服は、紺色ベースになった。

今日は、あの日を思い出す日。

実家では、母がお彼岸のお墓参りにいっている。

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2009/03/19

春ですね

青森にいるときは、3月はようやく雪どけが始まるという認識だった。
でも、今年の暖冬は、さすがの下北半島も暖かいらしい。
新潟もそうだ。去年、生まれて初めて日本海側の冬を体験したが、
あのしんしんと、いつまでも湿気がおさまらないような、
経験したことのない冷たさにはまいった。

カラダのあちらこちらに痛みのある人には、たまらない重たさだった。
それが春に日差しがさしこめたとき、本当に踊り出したくなるくらい、明るい空がありがたかった。
実家に1月、2月と帰ったら、新潟よりは遙かに気温が低く風も強いのに、
白っぽい冬空でさえ、その空の向こうに光りを感じて嬉しかったものだ。

それが今年。この暖冬。

新潟にも、光が降り注ぐ冬だった。

でも、春は春。
昨日、一応、念のためと思って冬のコートを着て自転車に乗ったが、
すぐにコートをぬいで前カゴに押し込めた。
それくらい、暖か。東京の春のように、本当にコートを脱ぎ捨てた春の始まりだった。

今日も穏やかに光が差し込めている私の机。
レースのカーテンごしから春風がはいってくる。
そう。窓を開けた。もう窓を開けてもよいという北国の春。

これで、いいのか? ホントに、これでいいのか?

と、自問自答しつつも、素直に輝く春を喜んでいる。

(写真は二王子山・新潟県新発田市)
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2009/03/16

あのころが甦る! マンデリンの香りにのって

ちょっと、つぶやき。

新潟や青森にいると、私の場合、一番、困るのが生のオーケストラを聴けないとか、
映画観で映画を見られない(試写に行けない)とか、
ぶらぶら大きな書店巡りをして思いも因らないジャンルの本に出会えないとか、
そういう精神的な行動のほかに、もっと切実で、生活に即した「お困り」がある。

それは、コーヒーだ。

今でこそ、スターバックスが全国に広がって、深煎りコーヒーは市民権を得ているが、
正直、カタカナがわんさかつけられて、アレンジしたコーヒーよりも、
しっかり濃くて苦みがあって、味わいのある、ふつーのエスプレッソやフレンチやジャーマンタイプを、
さらりと静かなテンションでいただくのが好きなのだ。

んー。。。

学生のころ、私はアボカドが大好きで、オリーブオイルも大好きで、
でも何となく普通の近くのスーパーにはおいてなくて、
よくビンボーながら青山あたりを散策した。

確か、ベルコモンズにバラの香水の量り売りのお店が入っていて、
サンプルでもらうような小瓶を買って、
ブルガリアローズとかの香りを楽しんだ。
ハンカチにくるんで、安いビニール製のバックにしのばせておくだけで、
少しだけ、背筋が伸びて笑顔になるような気がした。

そのベルコモンズで、オリーブオイルも買った。
紀ノ国屋スーパーか、原宿駅近くの南国酒家あたりにあったオリンピアというスーパーマーケットで、
アボカドとか、輸入食品のきれいなのを物色しては喜んでいた。

そんなふうに、お金がないながらも、ぶらぶら歩いて、たまに善光寺さんにお参りしてみたり、
KAWAIミュージックショップで輸入楽譜の安売りをあさってみたり、
憧れのグランドピアノが置かれるショールームを歩いてみたりした。

いつだったか忘れてしまったが、そんなふうに歩きながら、表参道の路上でコーヒー豆を買ったことがあった。
よく手作りのアクセサリーや、絵や絵はがきなどを売っている人たちがいたが、
その人たちの並びで、敷物の上に豆を量り売りをしているコーヒー屋さんがあったのだ。

季節は覚えていないが、ちょっと顔にあたる風に冷たさが残っていた気がする。
コーヒーの香りが風にのって、なんだかとても贅沢な時間を生きているような気分だった。

私は、「マンデリン」を買った。初めて出会う豆だった。
どうしてマンデリンかというと、そのころの私は(今もだが)、とてつもなくバルトークという作曲家にはまっていて、彼の作品の中に「中国の不思議な役人」というのがあり、原題には「マンダリン」という言葉があった。マンダリン・・・マンデリン(笑)。バカみたいな単純な発想だが、鼻息荒く、バルトークの研究をしていた私は、その響きから離れられなかった。

バルトークは1882年に生まれ1945年に貧困のうちに白血病に冒されて、亡命先のアメリカで亡くなった作曲家で、私は、音楽学の卒業論文にもバルトークをテーマに選んだ。オケのパンフ作りにも参加しながら、恋するようにバルトークに接していた。

その「マンデリン」を買った夜、ひとりでワクワクしながら、丁寧にコーヒーをいれた。
私はコーヒーをいれるという行為が大好きだ。コーヒー豆を買うときの、コーヒー屋さんの匂いも好き。
挽いてもらうときの勢いのある匂いが飛び交うのも好き(今では、ドトールでイタリアンエスプレッソを挽いてもらうときの香りが一番好き)。

初めて口にするマンデリンは、本当に本当に本当に美味しかった。それまで飲んだ、どんなコーヒーよりも自分に合っている気がした。
小学校三年生のとき、父が初めてサイフォンを買って、家族四人で豆のコーヒーを飲んで以来、
我が家は、朝の一杯は全員がコーヒーだ。母もそうだ。父が他界したあとでも、朝食の前にコーヒーを飲み、そのあと緑茶を飲んでいる。
そのときのコーヒーも忘れがたい味だったが、
マンデリンは、自分から出会いにいった極上の味という気がした。

先日、ネットでコーヒーを買った。
これまでに何度か利用している澤井珈琲さんから買った。
こちらには「ベートーヴェン」という名前の深煎りのコーヒーがあり、
夫も私も気に入っている。ベートーヴェンは夫が最も好きだという作曲家。
私は、このコーヒーを飲むとき、ベートーヴェンの「田園ソナタ」(15番・ニ長調)が思い出される。

その「ベートーヴェン」目当てで買ったセットに「マンデリン」が入っていた。
表参道でのことを思い出したのだが、これまで何度か別のお店でマンデリンを試しては失敗している。
ハッキリいって、今回も期待していなかった。

・・・しかし。

なんとなんとなんと、あの思い出深い香りと飲み込んだあとに口の中に残る味わいが甦ってきた。
あのときの、あの学生のとき、お金がないながら、どうしても飲んでみたくて買った「マンデリン」。

オシャレな人々が行き交う場違いな表参道で買ってしまった、でも、それが運命の出会いとなったコーヒー。

そのコーヒーが、今になって甦ってきた。何十年ぶりの再会だろう!!

小さく感動。私だけの感動。

心の宝や思い出は、まだちゃんと生きていた。
どんな香り? と、聞かれても思い出せなくなっていた香りと味わい。
ようやく、ようやく、思い出せた。記憶の中のコーヒータイム。
あのころの自分が、湯気の向こうに見えるような気がした。

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