原発半島とわたし
両親が教師の私。
戸数50戸ほどの小さな海沿いの集落や、マグロで有名な大間町など、下北半島のなかを転々として子ども時代を過ごしました。
ひとくくりに「青森」「下北半島」と言われますが、それぞれの集落や町は個性にあふれ、言葉も異なり、文化の違いや、ちょっとした雰囲気や景色の差異に発見を喜んでおりました。
両親も姉も私も、転校転勤の苦労はあっても、それ以上に引っ越す先々で楽しく暮らしていました。
交通も不便ですが、父は「漁師をやる甲斐性がないから、先生やるしかなかった」と言ってました。
引っ越すたびに私は、地域の方々から「うちの子になって、ここで暮らして〜」「みねあは残れ。養女になれ。グランドピアノ買ってやるから」と泣きつかれました。今も他人でも親類のように付き合っている大切な人たちがいます。
経済的に貧しい半島。
厳しい自然環境もさることながら、仕事はなく、かつての200海里で漁業は一気に苦しくなりました。「目の前に海があるのに、こうして魚を買って食べてるんだよ」と、ため息をついた「うちの子になって」と言って泣いてくれたおばさん。
帰省の折、タクシーに乗ると「湾岸道路もレインボーブリッジもディズニーランドも俺たちが作ったんだよ」と、ドライバーたちが口にします。
そういう出稼ぎをしなければならない環境にある人たちに「地元での仕事」が与えられます。原子力関係の仕事です。
出稼ぎをしなくていい職種の人たちには文化や芸術が与えられます。
行政主導のホールはガラガラでも、原発関連の演奏会場にはイベント会社がつき、一流の内外演奏家がやってきます。
まさに、仕事がない人には「出稼ぎをしなくてもいい仕事」を。
教師や会社員など、漁業や農業ではない人たちには「文化、芸術、教育、医療、より高い生活水準」を。
30年、40年……もしくはそれ以上の長い歳月をかけて、私たちの最北端の半島は原子力半島と化していきました。それしか選択肢のない状況に追い込まれていくとしても、まだ、それが、むきだしの民意だというのでしょうか。データに残らない歴史があるということを、「風評」という便利な言い換えで笑い飛ばしていいのでしょうか。
今は福島原発だけの、想定外の、人類初体験の事態だと特別な状況と位置づけられておりますが、
他の原発に、そうした想定されている「想定外」が起こらないとは、もう言えない段階です。起きてしまったいるのですから。余震も続いています。
そして、仮に21世紀の今、この状況が落ち着いたとしても、私たちは、私たちがいなくなった未来に、どうやって言い訳をするのでしょう。未来の「想定外」は、知らぬ存ぜぬでいいのでしょうか。
下北半島は逃げ場がありません。
付け根の南も、東も西も北も、原発関連施設に囲まれています。
閉じこめられてしまうのです。想定内の想定外で。
都会の、最も都会らしい景色の礎。確かに都会は地方の人々にとって憧れであり、生活の糧を設定したもらった土地ではあります。ですが、人と人。命と命。
犠牲になっていい命など、ありません。それは母なる地球の命も同じです。未来の命も同じです。
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