木曽路はすべて山のなか・・
正確には、木曽路を歩いたわけではなくとも、
信州を訪れるたび、私の頭のなかでは藤村の「夜明け前」が頭のなかをかけめぐる。
東京に住んでいたときの信濃の旅は、
それはもうシンプルに都会から澄み切った美しい信州へという図式で、
ダイレクトな感動を、そのままそのまま喜んでいた。
でも、今の私は新潟県の自然宝庫と称される地に住んでいて、
自分の部屋の窓からは里山が見え、大空がぐるりと足の裏以外を取り囲んでいるようなすばらしい環境だ。
白鳥とともにいる日常は、願ってもかなってもない大好きなこと。
それでも矢張り、信濃路は信濃路だった。感動と驚きと羨望にあえいでしまった。
どんなに、信濃川というのが身近であっても、
山々の静謐な空気を毎日の食事としていても、
信州は、どこまでいっても、とびきりの信州。
木々の枝や葉がキラキラと陽光に照らされて、
「木漏れ日」とひとくくりに表現してしまうには、あまりにももったいないような気持ちになった。
新潟の冬はどんよりしている。
弘前や大館はよく知っているが、果たして、すべての日本海側がこうなのか。
それとも新潟の位置が特別なのか。
晩秋という時期から既に、どんより暗い重たい空は始まっていた。
それもまた、この地の個性。善し悪しではなく、好き嫌いでもなく。
あるがままの、この地の佇まいの美しさ。透明なものだけが美しいのではないのだし。
高貴な中間色。くすんだ色のたとえようのない思慮深さにたとえてもいい。
今日の下越は晴れている。
光がまばゆい。
でもやはり、信州に降り注ぐ光とは違う。
その違いは何だろう。
やわらかさでも激しさでも鋭さでも明度でもない気がする。
光、そのものが上質なのかと思うくらい、
そのくらい、トンネルのつなぎ目でしか見えないような浅間山や上田の街並みやただただ広がる山々でさえ、
どこもかしこも丁寧に丁寧に煌めいていた。
すると、やっぱり頭をめぐる。
~木曽路はすべて山のなか~ ← 島崎藤村の「夜明け前」です。しつこいですが。
昨日は朝から仕事があり、人々と会い、話をして、ともに歩き信州蕎麦をいただき、善光寺さんにも手を合わせた。
できれば、東山魁夷美術館に寄ってきたかったが時間がなく断念。
前にも行ったけれど、美術館や博物館の静けさと匂いが大好き。
ただ、そこに行くだけで幸せになり、自分の場所だと思える。
口角をさげて憮然とした顔をして、それでも段々と視線が上向きになり、口が半開きになり、首筋が伸び、
目を細めてまぶたの上がすっきりとのびを するように気持ちよさを身体が訴えてくる。。。
そんな、私が私に戻っていく場所。
まぁ、いいでしょう。
京都や奈良、あるいは内子……、いや、すべての街並みでそうなのだが、
私は建物と建物の間をチラリと見るのが大好き。
猫がいることもある。今まで背負っていたように、ふかふかのランドセルが無造作にころがっていることもある。
長野の街並みも、その建物と建物の間の狭い空間が楽しかった。
光が見えて、別の世界が見えて、でもそれは、その一本の狭い道でつながっている。
つながっているはずなのに、とても遠くに見える。遠くに見えるけれども、実は本当に近く。
入ってはいけないよそのお宅の玄関に無断ではいるときのような勇気を持てなければ、
その向こうには行くことができない。。
そんな気分も楽しんできた。
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