小学校一年生のときに担任だったのは、和田ト○先生。
私の両親も教員だったことから、子どものころは教員住宅に入っていたのだが、なんと和田先生は我が家のお隣さんだった。丘の上に並ぶ、小さな教員住宅はかわいらしく、住宅の前の道から丘の下をみると、視界の奥に海峡が横たわっていた。幼児のころは、海に落ちる夕日をみると、世界が、これで終わってしまう気がして恐ろしかったものだ。
私は対人恐怖症のような子どもだったので(今の私を知る人は驚くが)、和田先生は、なんとか私に授業で発言させようと尽力してくださったことを覚えている。また、突然の転校生が来たとき、和田先生は、私に、その子と友達になるようにと仰った記憶もある。
その子は確か、二年生になるころには転校していってしまったが、丸太を積んである広場の近くに住んでいて、いつも私は、その丸太に上って、その子と一緒に遊んでいた。今、考えると危険きわまりないと思うけれども、あのころの私たちは、かなりきわどい遊びばかりしていたように思う。
さて、二年生になったら飛○先生という男の先生が担任だった。この先生は、12年前の父の葬儀にも来て下さり、励まして下さった。先生は、子どものころにお父様を亡くされたと仰っていたので、慰められるのが心苦しかった。この先生は、とてもユーモアのある先生で、授業も楽しくて楽しくて笑ってばかりいたように思う。ひょうひょうとした表情が、どこかのコメディアンみたいで、なんとも面白かったのである。子どものときの日記をみると、二年生のときも三年生のときも、「せんせいがおもしろかった」と書いてある(笑)。それしか覚えていないあたりが、なんとも私らしい……。すみません。
四年生の6月に転校した私だが、転校先で困らないようにと、転校前の学校で担任だった山本み○先生は放課後に算数と国語を補講して下さった。私は教科書を読むのが好きだったので、音楽の教科書も解らないところを質問したりしてみた。質問するという勇気を、初めて試してみた記憶が甦る。この先生には、いつか、きちんとお礼を言わなければと思うのに、この年になっても無礼を重ねて○十年……。
五年生のとき、私は、僻地5級地、戸数五十戸という集落の学校に転校した。下北半島の西海岸の集落である。こちらは、とにかく、大自然の中に人間が生かさせていただいているということを信じざるをえないような環境で、私は、楽しくて仕方がなかった。色々なことはあったし、自分が無力であるということを認めざるをえなかったりしたものの、私は、ここで、私は勉強しなければならないし、ピアノももっと練習しなければならないと自覚した。
だって私には、この集落の子どもたちのように、生きていく力と術などなかったから。
私は、一番の落ちこぼれで、役立たずだったから。でも、集落の人たちは私を力強く受け入れてくれて、ここを離れなければならないとき、車の中の私に、「高校も大学も出してやるから残れ!」と、言ってくれた人もいたほど! なんと、有り難い言葉! 私は一生わすれない。
申し訳ないけれども、この集落の学校は、教師と生徒の距離も近く、とりわけ私など、両親に教科をいくつも教わるハメにならざるを得なかったので、客観的に教師との思い出を描くことが難しい。強いて言うなら、運動会で父と二人三脚する事態に陥った際、写真をとってくださった加○先生だろうか。先生は、痔の手術をしたときの模様を、身体をはって解説してくれた。私たちは涙を流しながら、悪いけれども大笑いしてしまった。なんて残酷な子どもたち……。
中学二年で転校したら、ものすごい国語の先生がいた。
担任の先生も大好きだったが、こちらの国語教師の印象が強すぎた! (担任の先生は、現在は母校の校長先生をなさっているらしい)
国語の先生は、「ずっこ」というあだ名だった。四年上の姉の世代は「じっこ」と呼んでいたそうだが、四年の間に、更に、なまってしまったと思われる。
この先生は、とにかくすごい。わたくし、この先生におだてられて360枚の作文を書いたのだが、仕上がって、ガリ版で印刷し、配られた文集の脚注には、これでもか! と、いう、けなし文句がつらつらと書かれていた(笑)。この先生は、こういう先生。おだてて木に登らせてから、一気に崖から突き落とす(爆)。
でも、この先生、私にとっては大恩師である。作文は、中学三年のときに書いたのだが、まだ直す必要があるといって、高校まで押し掛けてきて、教室の前の廊下で待ち伏せをされたことまである。何とも、ものすごい執念であった!
で、この作文、私の手元にはなかったのだが、なんと去年の夏、今度は高校の現代国語の先生から、この作文の一部を見せていただいた!
ずっこ先生と交流があったということだが、高校の現代国語の先生は吉田○先生。修学旅行で、鈴鹿サーキットの「でんでん虫」に一緒に乗った思い出深い先生でもある!
この吉田先生も、ずっこ先生と肩を並べるくらい大好きな先生だ。ありがたい恩師である。下北文化会館でジョイントリサイタルを開催したときも、声をかけて下さった。
高校の担任の先生は、一年生のときは尾○先生という数学バリバリの先生だった。数学がまるでダメな私だったが、なぜか今もメールと年賀状をやりとりさせていただいている。二年と三年のときは、我が校きっての名物教師・美術の小○先生。毎日「くたばれ24」とか「くたばれ34」というミニ新聞を配られた。父は、この先生が大好きで、このミニ新聞を隅々まで楽しく読んでいた。
さて、音楽に進んでからの先生のお話は、又、別の機会に。
こちらも、超個性派ぞろいではあるけれども、現在進行形だったりして、ちょっと書きにくいかも……(笑)。
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