故郷・青森

2005/08/18

お盆雑感・2005

お盆グッズをしまった。

高坏や宗和、灯籠、水差しなど、お盆にしか使わないものを、箱の中に元通りにつめる。これが、又、楽しい。子どものころから、私の仕事のひとつだったこともあり、なんとなく私は、お盆なら私が仕切ることができると思わされてきた。

今になって思うと、祖母をはじめ、なんとなく私がおだてられて覚えされられたのかもしれない。暮れの神棚の掃除や、今は使わなくなったが、ランプの掃除も私の仕事だった。神棚もランプも、狭いところに手を入れなければならないのだが、私は、一番下なので、手が小さくて掃除をしやすいという理由だったのだと思う。

祖母は、わりと、ほら吹きだった(笑)。

その場の気分で、言うことがコロコロと変わる。
だから周りはたまらない。私は、その祖母に、「去年は、こういったよ」「前は、こうやったよ」と、笑いながら進言して楽しんでいた。ウソ八百かもしれない会話を面白がるような、いい加減な人間でなければ、祖母との会話は成立しなかったのかもしれない。

16日の灯籠流しは、静かだった。
どういう宗派の方か、それとも宗派に関係なく習慣で行われているのか解らないが、灯籠の中に、戒名のお札が入れられていることもある。熱心に手を合わせる方々がいるかと思うと、大きく手を振っている子どもたちもいる。灯籠を流す船が注目される一方で、岸に流れ着いてしまった灯籠を川の中央に押してやる人や、河口に近いほうまで持っていってあげる人もいる。

それぞれ、目に付いたことで、できることをして祖先を見送っている。故郷のお盆は、こんな感じ。やることが多くて面倒そうだと思われるだろうが、そんなわけでもない。祖母に代表されるように、わりと、みんなアバウトなのである。ついつい、伝統とか風習とかいうと堅苦しく考えがちだが、当人たちにとっては、それなりに手を抜いて、面白可笑しく現代的に臨機応変、楽しく続けているのだと思う。

今度は、お祭りが始まる。残念ながら、私には、お祭りまで見ていられる時間がないけれども……。

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2005/08/10

私が出会ったセンセイたち

 小学校一年生のときに担任だったのは、和田ト○先生。

 私の両親も教員だったことから、子どものころは教員住宅に入っていたのだが、なんと和田先生は我が家のお隣さんだった。丘の上に並ぶ、小さな教員住宅はかわいらしく、住宅の前の道から丘の下をみると、視界の奥に海峡が横たわっていた。幼児のころは、海に落ちる夕日をみると、世界が、これで終わってしまう気がして恐ろしかったものだ。

 私は対人恐怖症のような子どもだったので(今の私を知る人は驚くが)、和田先生は、なんとか私に授業で発言させようと尽力してくださったことを覚えている。また、突然の転校生が来たとき、和田先生は、私に、その子と友達になるようにと仰った記憶もある。

 その子は確か、二年生になるころには転校していってしまったが、丸太を積んである広場の近くに住んでいて、いつも私は、その丸太に上って、その子と一緒に遊んでいた。今、考えると危険きわまりないと思うけれども、あのころの私たちは、かなりきわどい遊びばかりしていたように思う。

 さて、二年生になったら飛○先生という男の先生が担任だった。この先生は、12年前の父の葬儀にも来て下さり、励まして下さった。先生は、子どものころにお父様を亡くされたと仰っていたので、慰められるのが心苦しかった。この先生は、とてもユーモアのある先生で、授業も楽しくて楽しくて笑ってばかりいたように思う。ひょうひょうとした表情が、どこかのコメディアンみたいで、なんとも面白かったのである。子どものときの日記をみると、二年生のときも三年生のときも、「せんせいがおもしろかった」と書いてある(笑)。それしか覚えていないあたりが、なんとも私らしい……。すみません。

 四年生の6月に転校した私だが、転校先で困らないようにと、転校前の学校で担任だった山本み○先生は放課後に算数と国語を補講して下さった。私は教科書を読むのが好きだったので、音楽の教科書も解らないところを質問したりしてみた。質問するという勇気を、初めて試してみた記憶が甦る。この先生には、いつか、きちんとお礼を言わなければと思うのに、この年になっても無礼を重ねて○十年……。

 五年生のとき、私は、僻地5級地、戸数五十戸という集落の学校に転校した。下北半島の西海岸の集落である。こちらは、とにかく、大自然の中に人間が生かさせていただいているということを信じざるをえないような環境で、私は、楽しくて仕方がなかった。色々なことはあったし、自分が無力であるということを認めざるをえなかったりしたものの、私は、ここで、私は勉強しなければならないし、ピアノももっと練習しなければならないと自覚した。

 だって私には、この集落の子どもたちのように、生きていく力と術などなかったから。
私は、一番の落ちこぼれで、役立たずだったから。でも、集落の人たちは私を力強く受け入れてくれて、ここを離れなければならないとき、車の中の私に、「高校も大学も出してやるから残れ!」と、言ってくれた人もいたほど! なんと、有り難い言葉! 私は一生わすれない。

 申し訳ないけれども、この集落の学校は、教師と生徒の距離も近く、とりわけ私など、両親に教科をいくつも教わるハメにならざるを得なかったので、客観的に教師との思い出を描くことが難しい。強いて言うなら、運動会で父と二人三脚する事態に陥った際、写真をとってくださった加○先生だろうか。先生は、痔の手術をしたときの模様を、身体をはって解説してくれた。私たちは涙を流しながら、悪いけれども大笑いしてしまった。なんて残酷な子どもたち……。

 中学二年で転校したら、ものすごい国語の先生がいた。
担任の先生も大好きだったが、こちらの国語教師の印象が強すぎた! (担任の先生は、現在は母校の校長先生をなさっているらしい)

 国語の先生は、「ずっこ」というあだ名だった。四年上の姉の世代は「じっこ」と呼んでいたそうだが、四年の間に、更に、なまってしまったと思われる。

 この先生は、とにかくすごい。わたくし、この先生におだてられて360枚の作文を書いたのだが、仕上がって、ガリ版で印刷し、配られた文集の脚注には、これでもか! と、いう、けなし文句がつらつらと書かれていた(笑)。この先生は、こういう先生。おだてて木に登らせてから、一気に崖から突き落とす(爆)。

 でも、この先生、私にとっては大恩師である。作文は、中学三年のときに書いたのだが、まだ直す必要があるといって、高校まで押し掛けてきて、教室の前の廊下で待ち伏せをされたことまである。何とも、ものすごい執念であった!

 で、この作文、私の手元にはなかったのだが、なんと去年の夏、今度は高校の現代国語の先生から、この作文の一部を見せていただいた!

 ずっこ先生と交流があったということだが、高校の現代国語の先生は吉田○先生。修学旅行で、鈴鹿サーキットの「でんでん虫」に一緒に乗った思い出深い先生でもある!

 この吉田先生も、ずっこ先生と肩を並べるくらい大好きな先生だ。ありがたい恩師である。下北文化会館でジョイントリサイタルを開催したときも、声をかけて下さった。

 高校の担任の先生は、一年生のときは尾○先生という数学バリバリの先生だった。数学がまるでダメな私だったが、なぜか今もメールと年賀状をやりとりさせていただいている。二年と三年のときは、我が校きっての名物教師・美術の小○先生。毎日「くたばれ24」とか「くたばれ34」というミニ新聞を配られた。父は、この先生が大好きで、このミニ新聞を隅々まで楽しく読んでいた。

 さて、音楽に進んでからの先生のお話は、又、別の機会に。
こちらも、超個性派ぞろいではあるけれども、現在進行形だったりして、ちょっと書きにくいかも……(笑)。

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2001/08/21

下北半島のお盆

下北半島のお盆・・・わが家の場合

 一年ぶりに里帰りをしてきた。
 東京駅を昼過ぎに新幹線に乗り、青森県の下北半島に向かう。盛岡で特急に乗り換え、野辺地駅で大湊線に乗り換える。ここで注意しなければならないのは野辺地駅の階段だ。一段だけ高さの異なる段があり、私の二人の叔母が転んだひょうしに手首を骨折している。大湊線との乗り換えがあるからといって、むやみに急いで怪我をしないよう、どうぞ皆様、お足下にご注意下さいませ。野辺地駅の皆様、できれば改善をご検討願えませんか?

 野辺地駅というと、高校生のころの思い出に、こんなにものがある。
 当時は東北新幹線開業前で、上京するには特急「はつかり」や夜行の急行「八甲田」「十和田」というのが私の定番だった。何しろ私は、音楽に魅せられた熱血受験生で、両親のすねをかじっては東京の先生の元にレッスンに通っていた。一ヶ月に一度の上京だったが、先生の予定によっては、二週間後というタイトなスケジュールもあった。
 ある朝、いつものように上り特急をホームで待っていた。一人での上京も慣れたものである。電車の到着を告げる放送が流れ始める。ホームにはダイドーの飲み物の自販機が設置されており、車内販売より安いので、とりあえず私は缶コーヒーを購入しようと思い立った。こういうときの私は慌てない。慌てると小銭を落としたり、ボタンを押し間違えて飲みたくもない炭酸飲料を買うハメになるかもしれない。
 お金をいれ、おもむろに缶コーヒーのボタンを押す。当たりが出ると、もう一本プレゼント! となるが、この自販機は、当たりが出たためしがない。特急電車の速度が緩められ、ホームに並んだ数人の乗客たちは近づいてくる「はつかり」の顔を眺めている。
私も缶コーヒーを取り出す。とそのとき、バカっぽく鳴り響く電子音が鳴った。ナント、もう一本プレゼントだ。落ち着け落ち着け落ち着け。でも乗り遅れたら今日中に東京には着けない。今夜は上野の東京文化会館会館で、新日本フィルハーモニーの定期公演を聴かなければならないし、レッスンを受けている先生とも会うことになっている。けれども当たりはハズセナイ! 
 とりあえず、もう一本缶コーヒーをゲット。もう「はつかり」は、すぐそこだ。コーヒーを取り出した。ところが、である。ところが、なのである。またもや、当たりが出たのである。もうヤケクソだ。「はつかり」の運転席が見えた。眼鏡をかけて冷ややかな顔のおじさんだった。私は、今でも彼の顔を覚えている。
 三本目となる缶コーヒーをゲット。「はつかり」のドアが開いている。ホームには特急が出たあとの普通電車に乗る乗客もいる。あたふたと汗をかき、泡を吹きそうになりながら、私は持っている紙袋に缶コーヒーを入れた。乗車口に走った。そのときである。おおかたの予想の通り、三度目の電子音が鳴った。ダメだ。もう諦めよう。誰でもいいから、買ってに何か押して飲んでくだされ。
 その私の肩をつかむ中年の女性がいた。俗にいうオバサンである。彼女は最後部車両から顔を出している車掌さんに向かって、天を裂くような大声で「ちょっと待ってけせぇー」と手を振り、私に「ほれほれ、はやぐ何か買わせぇ」と促した。私は泣きそうになりながらも、バカの一つ覚えのように甘ったるい缶コーヒーを四本も仕入れてしまったのである。
 駆け込み乗車で乗り込み、ホームにいるオバサンに手を振った。お断りをしておくが、このとき私はオバサンに缶コーヒーをあげようとしたのだが遠慮されてしまったのだ。私にだって、感謝の心と善意のかけらくらいはある。
 そんなワケアリの野辺地駅。今でもダイドーの自販機は健在ですが、残念ながら当たりつきではないようです。

 さて、ここより本題のお盆である。
 わが家の菩提寺は、大畑町の大安寺だ。奈良にある大安寺もステキだが、大畑の大安寺も情緒があり、子供のときから大好きだ。私の父は、1993年の5月21日に急逝した。自宅で亡くなったので、母だけが父の最期に立ち会っていた。父のこともあり、わが家でのお盆は以前にも増して大切な行事となっている。
 私の祖母は92歳で健在だが、なぜか私は、子供の頃からお盆の手伝いをさせられており、それが当然のことにように思えていた。祖母が言うには、さまざまな決まり事があり、それを厳守することが先祖を供養するのに大切なのだそうだ。
 大畑町特有の習慣なのか、わが家のお盆は、仏壇の前に、のれんのようなお飾りを作って吊すことに始まる。
 まず、白い糸を肩幅の長さに切る。
 姫リンゴを糸の先に結びつける。これが一番下にくる。もう一方の糸の先を針に通す。
 10センチくらい間隔をあけ、お盆用に、黄、赤、緑の色をつけた南部せんべいの大きさのせんべいをくくる。
 同じように間隔をあけ、順番に、平豆、お飾りのとうろう(これもせんべい同様に鮮やか。灯籠やナスの形がある)、こぶしほどの大きさにそろえたブドウ、再びとうろう、平豆、せんべいとくくる。
 それを7本作り、仏壇の扉の上部に針金をはり、等間隔に吊すのだが、その際、中央に半紙一枚分のスペースを残しておく。
 二十センチくらいの長さの昆布を二枚用意し、その上に布巾で湿らせてしんなりした素麺をのせ、半紙にのせる。昆布のお舟が二艘並んでいるように見える。
 あけておいた中央部分の針金に、その半紙と昆布と素麺のセットをそっとかけて垂らし、その素麺の上に、首飾りのようなハマナスをかけて完了となる。
 しかしながら、どの家庭に伺っても、のれんのようなお飾りは大畑町では見られるが、素麺と昆布はメジャーではないような……。もしかしたら祖母のオリジナルかもと思うのだが、何しろ祖母は92歳。最近では、東京にいるはずの私が九州で仕事をしていると思いこんでいる状態だ。本人は元気のつもりなので何よりだが、私が祖母から聞いた話の数々は、親類中を見回しても私しか知らない話が多い。いかに創作話が好きか、よく分かるというものである(笑)。昔から話し上手の祖母。今も日記をつけているようだが、果たして何を書いているのか、怖くて誰も読むことができない。

 わが家のお盆。祖母が大切に続けてきた取り決めは面倒だが、それがあるお陰で、皆、迷わずに準備に専念することができる。
 矢張り高校生のころのこと。私は祖母に聞いた。
「去年と、吊す順番違うけど、これでいいの?」
 気丈な祖母は、さらりと言った。
「特に決まりはないんだよ」

 わが家のお盆は、その昔から、祖母の語らいに私が付き合うことから始まり、今では、その私の知識を元に執り行われている。

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2001/07/30

ふるさと

 今私は東京都の板橋区に住んでいる。千葉県市川市、練馬区と移り住んだが、現在の環境が最も静かで、四季のうつろいを楽しむことができる。
 青森県の高校を卒業して上京してからは「おくにはどちらですか?」と尋ねられると、「青森です」と答えることにしている。本当は「むつ市です」とか「下北」ですと答えたいのだが、説明を必要とするし、結局「青森ですね」と括られるので、はじめから「青森です」と言ってしまう。もし私が海外で暮らすならば、「出身は日本です」と答えるだろうから、「ふるさと」とはどんどん肥大化するものなのだろう。
 むつ市にある県立田名部高校に入学したときは、多くの新たな友たちに出身中学や育った場所を尋ねられた。そのときは最終的に中学を卒業した場所を答えたが、何となく心に引っかかるものを抱えていたものだ。
 実に私は、三つの小学校と二つの中学校に通った。両親が学校の教員だったので、青森県の下北半島をくまなく巡る二人とともに歩んだわけだ。転校するたびに私は、その下北半島の中の地域の違いに驚き、幼い疎外感を味わっていた。だが私は幸いなことに、転校を不幸だと感じているわけではなく、むしろ多彩な自然を満喫できたことをプラスに思ってはいるのだが、子供のころの事情は、もう少し深刻ぶったものだった。
 私には「ことば」の壁があった。厳密な意味で、私は「方言」を喋ることができないし、下北半島のどの地域にも思い出やイメージはあるものの、何ひとつとして完全に自分の血肉としてはめ込まれているわけではない。青森県の言葉は、津軽地方と南部地方と下北地方と、三種類に分類されるらしいが、下北の中でも一つ一つの地区で微妙に異なる言葉を有している。国内の他の半島を旅しても、その多様な顔に感動するように、下北半島にも又、その地区に根ざした文化が脈々と守られているのである。
 だから私は、転校をするたびに、語尾の異なりやイントネーションのニュアンスについていくことができなかった。おまけに小学校の四年生のときに通った大平小学校は、原子力船「むつ」や大湊の海上自衛隊の子供が多く、それこそ飛び交う言葉は全国区の標準語に近いものだった。下北半島の西側、仏ヶ浦にほど近い牛滝という地区では、語尾に「せ」をつける言葉に驚いた。津軽半島がうっすらと見えるので、津軽のほうの言い回しに違いないなどと勝手に想像していたが、どんなに努力しても自分で日常的に使うことはできなかった。
 方言もそうだが、風土も微妙に違う。半島の北側を縁取る地域も、大畑のあたりはしっとりとしたものが感じられるが、西北の大間に向かうにつけ、カラカラに乾いたイメージが強い。あくまでも主観的なイメージでしかないが、湿った土と乾いた土、海で言うなら瀬戸内と沖縄の海ほどに、私には異なる感覚がつきまとう。
 「故郷は青森県の下北半島です」と言ったそばから、まともな方言を喋ることもできず、地区の盆踊りも知らず、できるのはお盆の飾り付けとお墓参りの手順を知っていることぐらい……。それでも私は、故郷への想いを糧に、東京もそれなりに良いもんだ、と、今の環境に満足して日々を暮らしているのである。

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