F1(エフワン)

2007/07/08

F1・イギリスGP

驚異の新人・ハミルトンはポールからスタートしたものの、結果は三位。走り終えたときも、表彰台の上でも、そして3人のインタビューのときも、覇気がなく申し訳なさそうに見えた。アロンソはさっぱり爽やかな表情。そしてライコネンは、お決まりの、ぼそぼそと呟くようにインタビューに答える。前屈みに見えたり、なで肩に見えたりするのは、フェラーリのスーツのためか、それともシューマッハと同じように、本当になで肩なのか(笑)。

この人。ブリヂストンの浜島さんによると、ホントはハキハキと喋るらしい。感情を露わにしないように見えるのに、いざ、お酒がはいるとバカ騒ぎをして悪酔いするというのだから、なんともおもしろいキャラである。

2003年だったか、シューマッハを追ってチャンピオンシップの二位につけていたとき、目の前でライコネンのマクラーレンがコースアウトした。すすーっと、割り箸か竹串で直線を引いていくように、あっという間の出来事だった。1コーナーに入ったところから挙動が怪しくて、あれあれ? と、思う間に、マシンはグラベルに線を引いてタイヤバリアにぶつかって停まった。その間、観客はどよめく。悲鳴も聞こえた。降りてきたライコネンは、よっぼどイライラしているのか、悔しさを隠しきれず、近寄ってきたオフィシャルが誘導しようとして肩に手をかけるのを振り切るほどだった。

まるで、悪ガキか、だだっこ! (爆)

苦笑いする声があちこちから聞こえた。巨大なサーキット。マシンの音もすさまじいし、視界は非現実的な別世界。観客たちは、レースを観る。はるか彼方の向こうのスタンドでも、丘や谷の向こうでも。音が届く時間差と、リアルタイムで見えるレース画像の大スクリーン。実況のアナウンサーの声が響く。

イギリスの人々は新人ドライバーを応援する。

光輝く、きれいな天気だったようだ。青空が懐かしい。
それにしてもF1のステアリング。ホントに、すごいですね。あれは、ハンドルというより、レベルは違うけれども、ゲームのコントローラーみたい。ゲーム画面のようにシフトチェンジとエンジンの回転のようすが、テレビの画面に映し出される。考えてみたら、ぼんやりと観ているF1も、ターボエンジンがどうのこうのと言っていた時代とは、ずいぶんと違ってしまった。

ちなみに、中嶋一貴は、GP2で三位表彰台だったとか。こちらも、将来が楽しみ♪

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2007/05/16

スペインGP・悲喜こもごも

ま、テレビ中継なんていうものは、コメントする人がプロで現地に行っているとはいえ、実際に見えている映像は、ほとんど視聴者と変わらないということで、そのへんをふまえて見る必要があるだろう。
予選が終わったとき、マッサがへとへとで大喜びしているのに、アロンソの余裕のある自信ありげな笑みは何か? と、アナウンサーや解説者がしきりに言っていた。

意味があるか、それとも単なる成り行きの一過性の表情かは誰にもわからないし、本人もわかっていないのかもしれない。その程度のことに、過敏に反応しなければテレビは成り立たないのかもしれないが、去年までは、過剰反応される王者の役割は、シューマッハ兄ちゃんがひとりで背負っていた。今年は、それが、アロンソだったり、チャンピオンにはなっていないもののライコネンだったりするのだろう。

シューマッハがピットにきたといえば、「何をしにきたんでしょうね」のコメント。

でも、いつも思うのが、どーしてF1パイロットたちのインタビューの翻訳が、「ぼくは、気にしてないよ」みたいになるのか(笑)。「私は、そのことについては、とりたてて気にしていません。いろいろな考えがありますし、そう思うこともありますが、今の私にとっては、そのことを気にするよりも、もっと先に考えなければならないことがあるからです……」と、どんなに丁寧に答えても、「ぼくは、気にしてないよ」(爆)。

おまけに、ずっと年齢がいったチームオーナーたちの言葉まで、そのノリで、簡潔にされ、ある種のイメージを先行させる。暗黙の了解を多くすればするだけ、みんなが納得ずくの誤解が許され、一定のイメージを作り上げて共感し、観客とかして喜ぶことになる。どーも、私には違和感。

ま、いいです。そんなに大きな問題ではないですし。

さて、ライコネンが停まり、ルノーと争っていた琢磨くんが、あわやポイントゲット! 地球カラーのホンダチームより先にゴールし、ポイントをとった。こういうタイミングは貴重だ。この先、いつ、前の四人のうちの一人が脱落するか分からない。そのときに、上位にいなければ入賞できないのだから。

しかし、さぞかし嬉しいであろう亜久里さんに、あえて意地悪なことを聞きたい。
かつて、現役のとき、中嶋さんが完走して六位に入ったとき(当時は六位までしかポイントがもらえなかった)、「ちんたら走って完走してもつまらない」とおっしゃっていたが、今のお気持ちはどうだろう……。なんて、ことは、どうでもいいけどね。

とりあえず、琢磨さんは、れいの甲高い声で、喜びの言葉を発したのだろうなと思うと、ふふっとほくそえむ。デビューの年、ジョーダンでポイントをとったときは、西日が照りつけ、オレンジ色に染まったサーキットで、「みんな、ありがとう!」と、インタビューに答えた声をきいた。あまりにもトーンが高くて、私は、スタンドでずっこけた。真夏のように暑かった鈴鹿。バルセロナも、暑かったという。おめでとう♪ですね。

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2006/09/11

F1イタリアGP・シューマッハの引退表明

予想はしていたので、やっぱり……と、思いつつ、正直、寂しい気持ちでいっぱいだ。

ポーランド人の新人ドライパーが三位に入ったことは特筆に値するけれども、矢張り、今日の主役はミハエルだったし、その、とてつもないプレッシャーの中、しっかり集中して、最高の結果を得たのは、並大抵の「ものすごさ」ではないだろう。

デビュー当時、私は、この人が苦手だった(笑)。
ミハエルは、それこそ誰が観ても生意気に見えたであろう。それでも速さは群を抜いていて、91年のデビューイヤーの鈴鹿でも、素人から観ても速くて思い切りがよくて強引、そのくせ、スムーズにスイスイ気持ちよさそうに走っていた。

2003年だったか、久々に、山田池の向こう、S字の手前で観たときは、あの丘を駆け上っていく後ろ姿の軽やかさに釘付けになった。

そのとき、以前、ドイツの教会に行ってきたというシスターから聞いた話しを思い出した。
聖歌隊ではない一般の信者さんたちが、何かメロディを唱おうということになったとき、楽譜があるわけではないのに、自然に和声学にのっとったハーモニーを作って合唱となり、別の曲では、その拍子や曲想に応じて、もっとも相応しいと思えるようなリズムの周期を表現していたのだそうだ。シスターは、この和声感と拍節感こそが、西洋音楽の血なのだなと感じたと、しみじみ仰っていた。祭りのお囃子を聞く私たちだって、何となく手拍子をし、ウキウキと飛び跳ねたくなる。意識していなくても、肉体に流れている、学習以前の血というのは、やっぱりあるのだと思う。

あの、鈴鹿のS字のリズムは、門外漢で見る限りは、西洋のリズムに近そうだ(勝手な私の感想なので悪しからず)。と、いうより、サーキットを周回するというリズムそのものが、西洋のリズム感に近いのかもしれない。
少々、強引だが、私には、ドイツ人のミハエルなら、その血の中にある、ドイツ音楽のリズム感を無意識に使っている、又は、使えているように見えるのだ。素質は、使う人によって育まれる。この人の走りを観ていると、いつも、そう感ずる。この人は本当に、ありとあらゆることをプラスに持っていこうと、勤めてきたのだと思う。

モンツァも、ただ観ている側としては、軽やかさが心地よく感じられるサーキットだ。イタリアの風土や、サーキットを囲む風景にもよるだろうが、クラシカルなF1ファンとしては、ここやホッケンハイム、イモラ、スパなどは、とても居心地がよい(見心地?)。

そのモンツァ。ミハエルにとっては、最後のモンツァ。エンツォ・フェラーリの息子として、輝かしい戦績を献上した彼は、今日、とてつもなく安定して走っていた。存在感を消してしまう。ミハエルが速いときは、ミハエルが走っていることを、観る側が度外視しそうになる。

アロンソは不運だったが、これも、フェラーリの、チャンピオンシップ連覇の、F1GPの洗礼だ。ここまでマシンにトラブルがなかったことは、まさに奇跡。どんなに素晴らしいマシンでも、壊れるときは壊れる。壊れてはならないときにも壊れるのだ。

若者たちは、いつもいつも、道を阻まれる。
誰だってそうだった。セナも、ミハエルも、プロストですら、そうだった。偉大なるパイロットたちに科せられた宿命なのだから、理由はどうあれ、そこに至る経緯に何があったとしても、次に向かっていなければならない。ま、アロンソだって、既に、気持ちの切り替えなど済んでいるだろう。
チャンピオンは、図々しくなければ、ふてぶてしくなければ資格がない。これは、どの世界でも同じことだ。
(青森弁では、「つらつけなくなければ資格がない」かな?)

うちの近くに、黄色い彼岸花が咲き始めた。
鈴鹿のときも、まだ、あちこちに赤い彼岸花がちらほらと見えたりする。今年も、黄金色の稲穂と、一面のコスモスが、鮮やかなF1マシンを迎えるときが近づいている。

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2006/07/30

F1ドイツGP・シューマッハ三連勝

昨日の予選と比べると、空は真っ青、空撮で見せてもらえる森は色濃く、最も白熱するGP中盤の盛り上がりをアシストするには、ピッタリの色合いになっていた。

レースは、最初のピットストップをライコネンが終えてからは、ずっとフェラーリのワンツー体勢。マッサは、ミハエルの後ろで、百戦錬磨のドライビングの妙を盗み見して、楽しんでいるようにさえ見えた。

バトンが踏ん張ったものの4位。ルノーの二台は、5位6位。

フェラーリ以外は、それぞれに攻防があり、熾烈なレースをしていた。こういうとき、フェラーリが速く見えるのではなく、他のマシンがスロー走行しているように見える。アロンソが独走していた時も同じ。突出した速さは、その淀みない美しい流れゆえに、私たちの眼は慣れてしまう。サーキットで観ていても、いつしか飛んでいくマシンの速さを追うことに慣れる。ただ、音だけは、いつでも刺激的だ。

競馬の予想をする人の言葉にもあったが、花火は視覚より聴覚が楽しいと。

私も同感だ。
真上の夜空から降ってくるような花火を見上げ、その煌めきに眼が慣れても、あの音は、いつまでも耳とお腹を貫き続ける。F1の爆音の軌跡も、同じように、身体のあちこちに残る。

亜久里さんのチームは、二台ともリタイヤとはいえ、これまでよりも戦闘力が増したことは確かなようで、それだけでも明るい気分になりたいところ。

すぐ、来週はハンガリーGP。
私が、一番、行ってみたい国だ。ハンガリーだけは、いつか、足を踏み入れてみたい。
よーなぽーときばのく!

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2006/07/29

F1ドイツGP・予選

ホッケンハイムのコースに、森がなくなって久しい。

あの、真夏の色濃い森の中から、しゅわーっとF1マシンが飛び出してくるような感覚は、もう二度と見ることはできない。映像であっても、ヨーロッパの夏は、空気の乾きが違うのだろうということが想像されて、郷愁の念に襲われたりもした。

今日のドイツGP予選は、まるで、いつも都会に住む私たちの視界と同じように、うっすらと霞がかかっているような映像だった。雨が降ったのだという。湿度が高く、例年より暑いのだそうだ。

縁石に、ドイツ国旗の三色が施されている箇所もあった。
以前、ポールリカールの縁石も、フランス国旗をあしらっている箇所があったが、今は、どうなのだろう。

予選の結果は、ライコネンのポール。前のセッションのベストタイムが残り、シューマッハが二番。マッサが次。アロンソはなぜか7番手。

予選方式は、どのように変えていっても、どこかで不公平感や矛盾が生じ、深刻になってくれば、又、次の案を通す……と、いう、繰り返し。試行錯誤は仕方がないし、安全第一に異論はないので、理解はできるけれども、心から共感できるかというと難しい。

でも、第二セッションのミハエルの速さは滑らかだった。どこが速いのか解らない。こうい速さは、本当に速いマシンと、本当に速いパイロットが出会わないと不可能だ。こういう一瞬が見たくて、F1を見続けている私。

亜久里さんのチームもニューマシンが投入された。実際のGPスケジュールでしかテスト出来ない状況らしいが、それでも、十分に進化してきたように見える。タイム差が縮まってきた。

7月最後の日曜日は決勝だ。
まだまだ梅雨のまっただ中みたいな天気なので、どうしても、夏休みがくるという実感がわかない。ピアノの生徒たちは、既に夏モード。部活や塾の夏期講習、楽しげな夏休みの話題にことかかない。
何となくドイツGPを観戦する気分ではないが、やっぱり好きなものは好き。段々、気分が盛り上がってきた!

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2006/05/31

F1モナコGP

青空が美しいモナコの景色を見るたび、熱海と重なるのは私だけではないだろうが、やっぱり、あの市街地コースをF1マシンが走るのは、そろそろ辞めたほうがいいかと思う。歴史と伝統があるのは百も承知しているし、私自身、肉眼でモナコのレースを観戦したくて仕方がない人間ではあるが、矢張り、もう無理なのではないだろうか。

モンテカルロでなければ、ミハエルは、あんなペナルティを受けることはなかっただろうし、故意か、ミスか、という曖昧で微妙なものを、果たして、ああも簡単に断罪していいものだろうか……とも、思う。

ああいう場合、もう一度、きちんと仕切直しをして、タイムアタックしていたマシンにチャンスをあげる方策とか、とれないものかとも思う。

ま、多くの人はミハエルを批判しているだろうが、私は、擁護したい。肝心なのは、確固たる故意かどうかではなく、ちょっと頭をかすめただけでも、ああいう状態になるスポーツなのだということ、加えて、仮に故意であったとしても、たった、あれだけのことで、台無しになるようなコースなのだから、あそこでレースをする以上、ああいうリスクは想定内のことのハズだということ。

だから、モナコは無理だというのは短絡的にすぎるというのは承知しているが、誰しもに起こりうるアクシデントのハズで、多くの人が故意だというのなら、それは、もう、嫌われ者としてのレッテルを貼られているということなのだろうな……と、思った次第。

ま、それにもめげず、ファステストラップを取ったのは、ミハエルの意地というか、強かさというか、ふてぶてしさというか(笑)、こういうところに好感が持てるというものだ。

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2006/05/13

F1・スペインGP公式予選

 まずは、結果から。
ポールはアロンソ。次にフィジケラ。3番グリッドはミハエル・シューマッハ、次にマッサ。5番グリッドにバリチェロがきて、6番、7番には、ラルフ・シューマッハとトゥルーリのトヨタ、そのあとにバトン。ルノー、フェラーリ、ホンダの間にトヨタ。ライコネンは9番グリッド。でも、この人、どうせ上がってくるので、グリッドの位置は、あまり気にならない。モントーヤはラストのセッションまでは残れなかった。琢磨クンは18秒台にかろうじて入り、ミッドランドとの差を1秒以下に縮めている。

 最後の、せめぎあいは、以前の予選を見るようだ。
去年までの予選システムは、雨が降ろうとヤリが降ろうと(笑)、とにかく、決められた時刻にアタックしなければならず、2003年の鈴鹿では、琢磨クンやシューマッハ兄弟が、降り出した雨の犠牲になった。賛否両論、好みの問題だろうが、私としては、今年のシステムのほうがしっくりくる。

 生で観たくなるシステムだ。
第三ピリオドのバレードラップなど、決勝みたいで楽しそうだ。写真を撮るチャンスも多そうだし。テレビではなくサーキットで観ることを考えれば、一周でも多く、一台でも多くのマシンが、目の前を通過してくれるほうがよいに決まっている。

 アロンソは、母国でポールを取って、勝利したかのように喜んでいた。何度もアピールするガッツポーズ。この人は、十年後、どのチームで走っているのだろうかと考えた。そのころ、ブリアトーレは、アロンソが敗れるのを観て喜ぶのだろうか。ポールをとって、ブリアトーレに飛び上がって抱きつくパイロットは、どんな人だろう……と、見知らぬ将来に、勝って気ままに思いを馳せる。

 土曜日のバルセロナは、少しだけ、霞みがかって見えた。十二万を超える観客が訪れたということで、スタンドの熱気が、コースにも反映されていたのだろうか。

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ヨーロッパに帰ってきたF1GP

 ラクダが一緒に走ってきそうな砂漠の中のF1も、蛇行した泥の川が流れる赤道直下の国でのF1も、それなりに楽しいが、ヨーロッパに戻ってきた姿を見ると、矢張り、こちらのほうがしっくりくる。

 磨き抜かれたマシンには、資本主義のなんたるかを堂々と掲げた企業のロゴが鮮やかに貼られている。そして、その中に、すっぽりと隠しボタンのように埋もれているヘルメット。そのヘルメットのデザインも企業ロゴが主体だが、全体の色合いは、パイロットの母国の旗や思い入れが込められている。唯一、ヘルメットだけは、パイロットが主体。二台のマシンが走るコースを見るときは、判別しにくいカーナンバーを追うより、それぞれのパイロットのヘルメットデザインを記憶する方が早い。

 今年もF1が開幕した……と、悠長に思っていたら、時は既に5月。スタスタと二週連続で、ニュルンベルグとバルセロナ。今日は、バルセロナの金曜フリーの結果しかみていないが、残念なのは、亜久里さんのチームの井出選手が、スーパーライセンスを剥奪されてしまったこと。フリー走行にすら、出られないことになった。

 全てを日本人で、と、いうのは、日本人としては頼もしいし、興奮する文脈だが、やっぱりF1は、わざとらしいほどの「グローバル」。作られていようが、演じられていようが、やっぱり欧米が厚遇されていようが、西アジアや東アジアの大富豪に媚びを売っていようが、それでもやっぱり、根底に流したいのは、地球まるまるボーダーレスだろう。亜久里さんの決断には、無条件で応援しちゃうけれども、やっぱり、急ピッチの参戦を成功させるには、ドライバー二人とも日本人というのは、困難すぎたのかもしれない。

 それはともかく、イモラもニュルンベルグも、とても美しかった。
ミハエルが勝ったからというわけではないが、新緑とともに疾走するフェラーリは、輪郭がくっきりと見えて、スムーズだった。アロンソは、何となく走っていそうなのに、ひたひたと速く、これ又、ベネトン時代のミハエルと似た雰囲気をもっているのが楽しい。

私は、呑気な呑気なF1ファン。

金曜のバルセロナは、テストでもよく使われるコースということで、目の色を変えて走り込む……と、いうのではなかったようだ。ライコネンも、ほんの少し走っただけとか。ミハエルは左のミラーが取れたとか。アロンソが走ると、スタンドが割れるような歓声だったとか(当然!)。
 いっぱしのファンの気分で、あちこちのサイトを見ては、情報を観戦。この、ひとときが楽しいのである!

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2005/09/12

F1・ベルギーGP

実は、先日、遅まきながらスカパーに加入した。晴れて私も、全てのF1をライブ観戦できる身分になれたのである。>おめでとー♪

ところが、で、ある!

折しも決勝は、衆院選の日。また、決勝スタートは日本時間の夜九時で、選挙速報とぶつかってしまう。それでなくても我が家は、自民圧勝で機嫌が悪いのに、呑気にF1を観ていてもいいのだろうかという気分になる。

……でも、見たい。見たい見たい見たい。

夫は選挙速報を見ていたいのだが、「時間だろ」と言ってチャンネルを切り替えてくれる。なんで、こんな低いテンションで、雨のスパを見なければならないのだろうかと思いつつ、土曜のフリーと予選からの流れを頭の中で反復しているワタシ……。

今年はリタイヤするドライバーが少ないと思っていたのだが、今日は、フィジケラのクラッシュに続き、セーフティカーがコースからいなくなった直後に琢磨くんがミハエルに追突しちゃったり、クルサードやトゥルーリ、残り数周でモントーヤもいなくなるなど、メジャーな方々の脱落が目立った。ワタシは琢磨くんもミハエルもトゥルーリも大好きなので、彼らのリタイヤは本当に残念だけれども、レインかドライかのタイヤ選択の妙や、濡れた路面と重苦しい空と木々の美しさは、のんびりと観戦しているファンには面白いGPだった。スパは、やっぱり、しっとりと暴れていないとつまらない。

土曜のフリーや予選の観戦も楽しかった。
セッションとセッションの合間に流れるモニタを、サーキットで見ているような感覚だった。
観客やパドック近くを移動する人々が静かに流れているのを見たり、空撮のヘリがあっちへ行ったり、こっちに来たりする音や姿がわかったり、現地のざわめきが聞こえてくるようだった。五台ごとに二分間の間隔があき、なんともテンポが悪いように感ずる予選も、現地にいるのと同じ気持ちで見ることができた。

足りないのは、マシンの匂いと、戸外の風。食べ物の匂いや座席の冷たさ、フラッグがたなびく音だけだった。

ライコネンは、まだ、ねばっている。

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2005/08/22

F1・トルコGP雑感

トルコでF1GPを開催するというのが、違和感があるのかないのか判断がつかなかった。

でも、モーツァルトが「後宮からの逃走」を書いたり、トルコ風の雰囲気をもつ?マーチをピアノソナタの終楽章にそえてみたりしているのを考えると、イギリス生まれのモータースポーツがイスタンブールでというのも、そんなに大それた現象ではないのかもしれない。

ま、それを言ったら、日本での開催だって、彼の地の皆さんにしてみたら、どれほどの違和感があったことだろう。

そのトルコGP。
ライコネンの Pole to finish! これ又、勝手ないいぶんだけれども、最後の記者会見くらい、ニコニコして生き生きと喋って欲しいと思う。けれども、フィンランド人の彼にしてみたら、あのくらいのテンションが平均的なのかもしれない。レース中の熱さとのギャップが面白い人だ。

ホンダとトヨタの対決を演出しているような場面もあったが、ホンダだってBARとのカップリングだし、トヨタだって現場はドイツでのスタッフだし、イマイチ、日本日本という気がしない。どうせなら、フェラーリのタイヤを引き受けて、今年は不振だけれども、絶大の強さを誇ったブリヂストンのほうが、まだ、やったぜニッポン! と、いう気持ちになる(ワタシの場合)。

でも、別に、嘘くさいほどにグローバルなF1GPに、わざわざ日本日本と豪語することもなかろうに……と、いう気分にはなる。やっぱ、日本を感ずるのは、ドライバーに対してなのだと思う。

琢磨クンのレースでの走りのみが、日本人が日本人を応援する興奮となるのだと思う(こちらもワタシの場合)。ホンダを応援したくなるのは、F1といえば本田宗一郎さんという強烈な人間国宝のような人が、まだ、私たちの記憶に残っているからだろう。

琢磨クンには、なんとか来年も走って欲しいと思うのだけれども、どうなのだろう。微妙な立場だとは思うが、いつも欠かさない笑顔をみると、応援したくなる。

元気のないシューマッハ兄弟だが、この二人は、マイナスイメージを強烈にクローズアップされやすい立場。最近、弟のラルフは、ミハエル兄ちゃんにそっくりになってきた。少々、痩せたのか、ちょっと見、区別がつかないときもある。ハンガリーGPの記者会見では、ミハエルのレーシングスーツが変わった! と、思ったら、ラルフだった(笑)。パナソニックのコマーシャルでも、一瞬、映るラルフがお兄ちゃんと重なる。やっぱ、兄弟なんですなぁ。ワタシも、地下鉄の窓ガラスに映る自分の顔をみて、姉と似てきたと思うことがあるし……(関係ないですね)。

トルコのサーキットは、新しいサーキット特有の、だだっぴろいコース幅とランオフエリアが特徴的だった。マレーシアだったか、バーレーンだったかでも目にした、鮮やかな青い色の砂(?)もあった。あれ、ドライバー的にはどうなのだろう。目印になるとか、何か、メリットがあるのだろうか。ワタシとしては、どうも、あの色彩は好きではないのだが、安全面やドライバーの事情でプラスにはたらくのなら大歓迎というところ。

今年のワタクシ、あまり、F1をマジメに観ていない。
ルノーとマクラーレンが強くなり、アロンソかライコネンかという対決も面白いとは思うものの、ワタシとしては、まだ、あの二人にはチャンピオンにはなって欲しくない。モントーヤやラルフあたりの世代に、もっと暴れて欲しいのだが、これもタイミングの周り具合というのが難しい。特に、モータースポーツは、マシンあってのスポーツなので、ドライバー一人が頑張ってもラチがあかないのである。

もうひとつ。

トルコGPは、最後にモントーヤが見せ場を作ってくれた! これだから、この人の茶目っ気にはかなわない。勿論、本人は、お茶目を演じたつもりはないだろうが、結果的に最後にアロンソを先行させてあげちゃうあたり、最高のショーであった! さすが! 

去年、ミハエルを、とことん、けなしたあとのモナコGPで、トンネルの中のミハエルに追突してしまったときの、なんともバツの悪そうな表情も面白かったが、今回は、直前の事故でマシンの状態が悪くなってしまったようだ。本人も、カラッとしていたように見えた。ま、元気満々のモントーヤも、今や一児のパパだから、そんなにカッカとキレてばかりもいられないのだろう。

F1は楽しい。
目の前をマシンが通りすぎるときは、肩を上げずにはいられない。右の耳から入った爆音は左の耳からぬけていく感じがする。走行するラインが、音の形となって見えるような気がする。ワタシは運転などできないから、全てが幻想的な想像の世界。ひとつも具体的で現実的なものはない。何ひとつとして確固たるものはない、完璧に曖昧な世界に浸っていられる。ワタシの時間。ワタシだけの視界。ワタシだけの触感。ワタシだけの音の軌跡。誰が、どんなに正しいことを言ったって、ワタシには関係がない。

ワタシが見ているのは、ワタシだけの、ハードディスクに記憶され、ワタシにしか取り出すことはできず、ワタシが生きている限り、ワタシの記憶が働くかぎり、恒久にワタシのものだ。決して亡くならない。

イスタンブール。東西が交わるところ。
呑気に観戦できる立場の人間としては、ロマンティックで、なかなか粋なGPだった。

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