自然

2010/09/11

公園で釣りをするということ

新発田市の升潟は、野鳥と水辺の植物で市民のオアシス的な場所。

片翼で10年以上も升潟を住まいとしているオオハクチョウの駒ちゃんや、先日、瀕死の状態から見事に生還し、升潟に集う人々を感動させてくれたアヒルのがーこちゃんもいる。
今は、他に鷺やカルガモもいる。巷で道路を横断する姿が微笑ましいと、和ませてくれるカルガモだ。

升潟の周囲は遊歩道が完備されており、散歩したり、ウォーキングやジョギングを楽しむ人たちが朝に夕に訪れる。
ベビーカーを押した若いお母さんや、杖をついたり車椅子を使用している足腰の弱い皆さんも、車椅子用に調えられた道を楽しんでいる。

片側が里山の斜面、片側が升潟という水辺。
スポーツをしたい人も、健康のために軽い運動を続けたい人も、のんびり散策したり自然観察を楽しみたい人も、みんな、穏やかな気持ちでここに集う。

犬の散歩も楽しそうだ。
犬の顔だけはわかるもの。申し訳ないことに飼い主さんの顔や名前は失念しても、わんこの顔と体つきは、動物好きになら記憶できる。犬の知り合い、野良猫の知り合い、もっとハイレベルになれば升潟の鳥たちの顔つきすら、ソノ気になれば記憶することができるだろう。

そして、その升潟に集う人々の中には、多くの釣り人たちもいる。

さて。
この釣りを楽しむ皆さんには、残念ながら、声を大にしてお願いしたいことがある。


鳥に向かって釣り糸を投げないでください。
鴨や鷺は夕方の水辺では黒っぽくてよく識別できないのではないでしょうか。
のんびりと居眠りしている彼らに、エサをとろうと一生懸命な彼らに向かって、どうかどうか釣り糸を投げないでください。
皆さんは鳥をつろうとしているのではないことは分かります。
ですが、ほんの1メートルほどの距離に釣り糸が飛んできたら、鳥たちはどんなに驚くことでしょう。
既に、何羽も皆さんの釣り糸に鴨たちが引っかかっているはずです。
足を悪くしている鴨たち。わりと多いのです。

どうかどうか、升潟に切った釣り糸を残していかないでください。
毎日、升潟にいくたびに、私は何度となく皆さんが残していった釣り糸を見つけては自宅に持ち帰っています。
他にも、大勢の皆さんが、そうして皆さんの釣り糸を持ち帰って処分しています。
散歩中のワンコたちが、見つけては口にします。
何にでも興味津々。好奇心いっぱいの幼児たちも拾っては指に巻き付けています。

釣りをするとき、皆さんの後ろに人はいませんか?
私は何度も、ひやっとしたことがあります。
私自身が怖い目に遭ったのは勿論のこと、夕方の遅い時間であっても、皆さんの背後によちよちと幼児が走っていることがあるからです。

そういうことは気をつけていると思っておられるかもしれませんが、
キケンな状況に陥るときは、間違いなく皆さんが釣りに夢中になっていて、
他のことに気がついておられないかと思われます。

また、升潟で、木々を見ていますと、ちょくちょく蛍光カラーのプラスチック製の何かを見つけます。
目を細めて、何だろうと思うと、皆さんが釣りに使う道具のようです。
浮きというのでしょうか。
そして、木々の枝からだらりと垂れ下がっている幾本もの釣り糸。
取りたくても、私には到底、手が届く位置ではありません。

こうしたものは、どうか皆さんの手で、持ち帰っていただけないでしょうか。
ビニールのゴミも、地面に落としてしまったら、拾って持ち帰っていただけないでしょうか。

マナーマナーマナー! と、声を大にして叫びたいわけではないのですが、
どうかどうか釣り好きの皆さん、升潟にいらしたときは、
みんなが大切にしている自然。。そのなかには野鳥たちもいます。
魚がすむ湖は、同時に野鳥たちの家なのです。
そして、その野鳥たちは、升潟に集う人たちとともに生きる友だちです。
皆さんとも友だちなのです。

およそ3年前まで、私は東京に住んでおりました。
石神井公園や城北公園が憩いの場でしたが、公園の池での釣りは禁止だったり、厳しく規制されておりました。

新発田は東京と違って大自然が至るところにある素晴らしい街。
釣りを楽しめるのも、野鳥とともにいられるのも、里山の息吹を思いっきり吸い込めるのも、
すべては自然の恵みがたおやかだからこそ。

その豊かな自然が、すくすく生き生きと、自分たちの生を生きていられるように、
道具を持ち、選択肢を想像することのできる人間である私たちこそが、細やかな心配りをするべきではないでしょうか。

どうかどうか、釣り人の皆さま。
ご自身のこととして、考えていただけませんでしょうか。
皆さんが投げる釣り糸の先には、肉眼では把握しきれない鳥たちがいるのです。

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2010/08/30

アヒルのがーこちゃん奇跡の生還

金曜のお昼に、身動きできない状態だったがーこちゃんが忽然と消えた。
岸辺に座り、羽はじっとりと水に濡れ、
ぺったりとした身体をしていたアヒルのがーこちゃん。
人のそばに来ることもあるけれども、それでも基本的に臆病ながーこちゃんは、
人が近寄ると「ひょひょひょ」と言いながら逃げていく。
絵文字の「汗」をつけたくなるようなかわいらしさだ。

その、がーこちゃんが、あの日は全く逃げられなかった。体力気力ともに限界という感じで、
他のカルガモたちが何羽も死んでいく中で、ついには、がーこちゃんも力尽きるのか……と、
がーこちゃんと仲良しの人間たちは皆、口には出さないながらも覚悟していた。

がーこちゃんの姿が消えてから、私のほかにも何人かの人が、日に何度か升潟を訪れた。
がーこちゃんの亡骸がさらされていないか、
どこかに佇んで動けないがーこちゃんがいるのではないかと、灼熱の太陽の下を捜しに捜した。
でも、見つからなかった。名前を呼んだけど。

これまでも何日か姿が見えないことはあったが、今回はワケが違う。

今日も午前中は見つけられず、半ば諦めたほうがいいのかもと覚悟はした。
夕方。新発田祭りは帰り台輪という日で、そのせいか、升潟はいつもより静かだった。

実は、アヒルのがーこちゃんには命の恩人というKさんがいる。
過って釣り針を飲み込んでしまったがーこちゃんを引き上げ、抱っこして、その針をひっこぬき、がーこちゃんの命を助けたのであった。

今回も、真っ先にがーこちゃんを見つけたのはKさんだった。
がーこちゃんが一番見つけてもらいたかった人に、見つけてもらえたのだ。生きている状態で。

アヒルは野鳥ではない。元々は家畜だ。
でも、がーこちゃんは升潟にいる。誰かが捨てたのだ。そして野生化した。

野鳥にどこまで手を貸すか。
どこまで、人が関わるか。関わらないほうがいいのは理解しているし、本当にそうだと思う。
でも、駒ちゃんは片翼で飛べない。それでも、今まで生きてきて、升潟に集う人なら知らない人はいないほどの有名人。片翼でも頑張って生きている、目に見える形で駒ちゃんの生きる知恵に触れることができる、駒ちゃんが他の白鳥や鳥たちにかける愛情の尊さに触れることができる。

完璧にラインを引くことがいいのか悪いのか、これはもう答えの出ない問いだろう。
どっちつかずの事情を知り、聴き、汲み取り、
心のなかで反芻する。

がーこちゃん、生きていました。奇跡の生還です。
あとは、このまま順調に回復してくれて、このあとの残暑にも耐えて生き抜いてくれること。
オオハクチョウの片翼の駒ちゃんも、口を開けて息苦しそうにしているが、
何とか乗り切ってもらいたい。頼むから、乗り切ってもらいたい。

でも、できることなら、専門の獣医さんに、
彼女たちの状態をみてもらいたい。
素人の私にはわからない。いつもいつも想像ばかり。
何をすればいいのか、しなければいいのか、見守る術と知識を、自分勝手に調べるのではなく、専門家の口から直接聞きたいと思うのは贅沢か?

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2010/08/27

升潟の鳥を守って!

升潟の鳥を守って!
升潟の鳥を守って!
昨日と同じ場所に佇むがーこちゃん。

アヒルのがーこちゃんはみんなの人気者なので、升潟に集う人たちは皆、一様に心配している。

片翼のオオハクチョウ駒ちゃんも、少しおかしい。羽が水に浸ったままのところがある。泳ぐのも遅い。

何とかしたい。
お金も車もない私。どうすればいいかと思うが、少なくとも、がーこちゃんは時間の問題のような気がする。

とりあえず、今朝はまだ、がーこちゃん頑張っている。命の力は凄い。
何処に連絡をして相談するべきか、とりあえずできることから動いてみたい。

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2010/08/26

野鳥たちの酷暑

昨日、近所の升潟で、鴨が三羽亡くなっていた。
今日、市役所に頼んで処理をしてもらったのだが、
夕方に、「まだ1羽、死んでるね」と。

昨日の1羽を見つけられなかったのか、それとも、また新たに1羽亡くなったのか……。

何が原因かはわからないが、鳥たちに異変が起きてしまった。

で、実に実に心配なことに、あひるのがーこちゃんまで今日はぐったりと。
首は上げているものの、岸辺にいて、人間が近づいても逃げない(逃げる体力がない)。
お尻のほうの羽はぐっしょりと水に濡れていて、上手に油を出せない状態のようだ。

何とか何とか助かってほしい、大好きなアヒルのがーこちゃん。

で、何かあったときに保護してもらいたくて色々と調べてみたが、
白鳥や鴨は野鳥なので、まだ、対象とされているが、
アヒルは本来は家畜。
野鳥ではないということで、野鳥保護センターなどでは保護の対象にならないようだ。

でも、がーこちゃんは、明らかに升潟に住んでいて、
誰の保護も受けていない。
もちろん、人間によって捨てられたことは間違いないが、
今は立派に野生として生きている。
そんながーこちゃんを救う手はないのか・・

力づけようと「がーこちゃん」と名前を呼ぶ。
「ひゅひゅひゅ」といつもの小さな声を震わせるが、長くは続かない。
じっと耐えて、体力の回復を待つ体力と気力ががーこちゃんの小さな身体に残っていることを強く強く望んでいる。

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2009/04/29

夕方の白鳥

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オオハクチョウの駒ちゃんは、片方の翼を失っている。
夕方の美しさは絶品だ。

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2009/04/28

久々の夕日

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気持ちのよい夕暮れ。
さっきまで片翼のオオハクチョウ駒ちゃんと一緒。

広々とした大空が、瞬時に装いを変えていく

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2009/04/15

ともに生きる幸せを

片方の翼の下半分を、何らかの事情で失ってしまったオオハクチョウ・駒ちゃん。
「駒ちゃん」という名前は、「雪国」の「駒子」から。
勝手につけて、そう呼んでいる。

しかし駒ちゃんは、私がそばにいって名前を呼ぶと、こちらを意識してくれるような気がする。

駒ちゃんが暮らしているのは、私の住まいのすぐ近くにある公園の池だ。

春になって、駒ちゃんは、ずいぶんと大きな声で鳴く。
繁殖の季節だからだろうということだが、片方の翼になって飛べない駒ちゃんは、
繁殖の相手がいない。いつもひとりぼっちで、たまに私のような人間が駒ちゃんの近くにくるくらい。

あとは、やはり定住している鴨や鷺、アヒルなどが同居人のようなもの。

ときおり、駒ちゃんが怪我をしたときのことや、まだ元気にシベリアとここを行き来していたときのことや、
将来のことなど、頭の中で想像することがある。

私は、こちらにきたのは1年と少し前なので、駒ちゃんとの付き合いも短い。
駒ちゃんが、いつからここにいたのか、前はどうだったのかという情報は、
駒ちゃんを見に来る近隣の方々の話から類推されるもの。

とはいえ、私は今、毎日、できる限り、駒ちゃんの姿を見にいっている。
元気でいてくれれば、それだけで満足。
同じときに、こうして声をかけあえる距離に生き、ともに動き、互いに意識しあえるだけで幸せだ。

駒ちゃんが元気。

それだけで私は、幸せな夜を迎えることができる。

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2009/03/04

片翼の半分を失った白鳥・駒ちゃんの今日

仕事の合間に、今日も負傷した白鳥の駒ちゃんに会いにいく。

駒ちゃんは白鳥の名前で、私が勝手に呼んでいるだけなので悪しからず。

駒ちゃんは、片側の翼の下半分を失っている。
よく、この身体で何年も生きてきたものだと感心するが、本人は至って元気。

かなり人になれていて、岸から駒ちゃんを目で探していると、するすると近寄ってきてくれることもあるほどだ。

私としては、駒ちゃんの声が聞きたいが、お喋りの趣味はないみたい。
よく分からないが、白鳥たちは、着水直後や飛び立つ直前によく鳴いている。
飛びながらも、よく歌声を聞かせてくれる。
飛ぶことを諦めざるをえなかった駒ちゃんは、果たして、鳴くことがあるのだろうか。

白鳥の声は、けたたましいと思うことも多いが、哀愁のある響きのある声で歌い上げることもある。
かすれたような声のときは、何かを呟いているのかもしれない。

駒ちゃんが、仲良しの仲間たちといられるのも多分あとわずか。
シベリアに仲間が帰ってしまうと、駒ちゃんは、人目をはばかるかのように、
岸から遠く離れた芦が生い茂るあたりに移動してしまう。
このように近くまで来てくれる機会も少なくなってしまうだろう。

駒ちゃんは今日も元気。
痛々しい姿に、人間としては、いたたまれない気持ちになる。
けれども、ちょっと目が据わっていて、仲間をつついたり、つつかれたりしながら、
対等に逞しく生きている駒ちゃんの日常を見ると、
「かわいそう」とは又、違った感情・・、いや、全く異なった共感と開き直りが折り重なった別個の感情がわいてくる。

彼女が生き生きと泳いでいると安心する。
それだけでいい。生きているだけでいいんだよ、と、自分にもみんなにも言いたくなる。090304_1654

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2002/11/19

坂道

この季節になると、歩くたびに落ち葉や枯れ葉の匂いがする。赤坂界隈に仕事で出かけることが多いが、私のお気に入りは薬研坂。薬をつぶす器「薬研」のように下って昇る急な坂道で、とりたてて美しいわけけではない。その名の通り坂道だらけの赤坂と、小高い青山。かっこいい東京の代名詞みたいな地域だが、細い路地を入ると、高級なんだか庶民的なんだか判らないほど混沌としている。さてさて、なぜ私が薬研坂にこだわるかというと、故郷の下北半島の薬研温泉を思い出すから。大畑町の山の中にある薬研は、凶暴な風(笑)が吹きまくる下北地域で紅葉が楽しめる貴重なスポットである。

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